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​正信偈に聞く

 20-1 

​平成21年11月16

  今月から「釈迦章」に入ります。

 

如来所以興出世 如来、世に出興したまうゆえは、

(釈迦如来が世に出られたわけは、)

唯説弥陀本願海   ただ弥陀本願海を説かんとなり。

(ただ、海のように広く深い阿弥陀仏の本願を説くためである。)

五濁悪時群生海  五濁悪時の群生海、

(五濁の悪時のすべての人びとは、)

応信如来如実言   如来如実の言を信ずべし。

(釈迦如来の真実の通りのお言葉を信ずべきである。)

 

このように古田先生は仰っておられます。『正信偈』は大きく分けて「依経段」と「依釈段」になっています。そして、このお経というのは、基本的に『大無量寿経』ですが、浄土三部経によって本願念仏のおいわれを述べておられるという意味で、「依経段」というんですね。

それに対して「依釈段」というのは、釈(しゃく)に依ってということですから三国七祖です。三国というのは、インドでいいますと龍樹菩薩・天親菩薩、中国に行きまして曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、日本では源信僧都・源空上人の三国七祖です。つまり、お経によって釈を述べられた方が三国七祖ですから、その釈によって本願念仏のおいわれを明らかにしてあるのが、依釈段になるわけですね。それから、依経段の前半分は「弥陀章」です。後半分が「釈迦章」になっています。そして結誡(けっかい)となっています。今日から読みますところは、依経段の「釈迦章」になるところです。

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

 

です。ここでいわれている如来というのは、お釈迦様のことをいっておるんです。如来という時は阿弥陀如来とか釈迦如来というときがあるわけですが、ここでいう如来は釈迦如来のことです。次に、

 

1「如来」 タターガタ

タタ―+ガタ 真実に向かって行った人 如去 成道された釈尊

タタ―+アガタ 真実から来た人  如来 説法された釈尊

如来(タターガタ 真実から来た人)と 仏陀(ブッダ 目覚めた人)

 

如来というのは、二つの言葉があって「成道された釈尊」と「真実から来た人」という、真実から来て説法された釈尊という意味があるということが書いてあります。「如来所以興出世」と親鸞聖人がおっしゃられる如来というのは「真実から来た人」、だから単なる釈尊といわないで、説法された釈尊のことを如来というのだと、こういうように言われるわけです。

 

2「世に出興したまうゆえは」 如来(ここでは釈尊)が世に出られた理由。如来の「出世本懐・しゅつせほんがい」

 

 つまり、この世の中にお出ましになった真の願いです。次に『大無量寿経』が出世本懐のお経である、つまり如来様はこの世にお出ましになった、本懐の経は『大無量寿経』だと仰る証拠の文章を古田先生はここに引かれています。

 

出世本懐の経

1『大無量寿経』

「如来、無蓋(むがい)の大悲をもって三界を矜哀(こうあい)したまう。世に出興(しゅっこう)したまう所以(ゆえん)は、道教を光闡(こうせん)して、群萠を拯(すく)い恵むに真実の利をもってせんと欲(おぼ)してなり。無量億劫に値(あ)いたてまつること難く、見たてまつること難し。霊瑞華(れいずいけ)の、時あって時に乃(なお)し出ずるがごとし。」

 

という言葉が『大無量寿経』にあって、これが出世本懐の経であるということを証拠付ける言葉だと親鸞聖人がおっしゃっておられます。意味をひろいます。「如来」というのはお釈迦さんです。「無蓋」というのは蓋が無いというじですから、この上もないという意味です。「三界」というのは迷いの世界です。「矜哀・こうあい」というのは哀れむ、哀れみたもうという意味ですから、釈迦如来が無上の大悲をもって迷いの世界である三界を哀れみたもう。そして「世に出興したまう所以は」この世の中にお出ましになるゆえんは、「道教を光闡して、群萠を拯い」と。道教というのは一代仏教という意味です。つまりお釈迦様が一代の間にお説きくださった一代仏教を道教と言ってあります。その一代仏教を「光闡・こうせん」というのは、弘め述べるという意味です。弘め述べて、そして「群萠(ぐんもう)を拯(すく)い」と。「群萠・ぐんもう」というのは、我われ衆生のことですが、群というのは羊の群れという意味です。萌というのは、もえいずるという意味ですから、春になると雑草が沢山萌え出るでしょう、ちょうどそれは、我われ衆生のことを譬えて言ってあるわけです。それら群萌に何を恵むか、真実の利を恵む。「恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。」この真実の利というのは、阿弥陀如来の誓願だと親鸞聖人は仰っています。阿弥陀如来のご本願のことです。誓いであり願です。だから「真実の利」というのは、つまり阿弥陀如来の誓願をもって群萌を救おうとなさった。沢山の教えを説かれた「所以・ゆえん」わけですが、「道教を光闡して、群萠を拯い恵むに」というのは根本ですね、それを「真実の利」と言われて、阿弥陀如来の本願によって群萌を、一切衆生を平等に救おうとお考えになった。このことは、「無量億刧にも値(あ)いたてまつること難く」です。無量億刧というのは量れない。億刧の刧というのは五劫思惟の刧ですから、非常に永い時間を言っておるわけです。途方もない時間を無量億刧と言ってあるのです。つまり、この「真実の利」を説かれる教えに値うということは、とてつもない時間、無量億刧にも我われがあうことは難い。そういう稀有なことである。希に有るといいますが、稀有なことであるということを仰るわけです。「値いたてまつること難く、見たてまつること難し」と、お値いしてそのお姿を見るということは難いと。喩えていえば「霊瑞華の、時あって時に乃し出ずるがごとし。」というわけですから、霊瑞華(れいずいけ)というのは優曇華(うどんげ)のことです。優曇華は三千年に一度開くという伝説の華です。芽が出て千年、蕾が出て千年、華が開いて千年、だから三千年に一度開く華に、たった五十年か六十年しか生きることのできない私が、たまたま値い得たと、こういう意味ですね。だからそれは、如来様が無上の大悲をもって、迷いの世界を哀れまれた。

迷界を仏教では「三界」(欲界・色界・無色界)といいます。欲界(よっかい)というのは、欲の塊である私が受け取っている世界という意味です。我われの世界ともいえますし、欲の心で受け取っておる世界です。本来真実の世界なのでしょうけれども、例えば禅宗では「本来善悪なし」と、こういう言い方をしますでしょう。人間は善い悪いと言う、しかし本来何もないのだと。その無いものに善だと悪だといって、善悪を決めていく思いに振舞わされていく、こういう意味でしょう。そういう意味でいうならば、犬や猫は欲界ですけれども、善悪はないですから人間よりのびのびした境界を生きているのでしょうね。人間はただ欲だけではなくて善悪がありますからね、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という時に、人間は善悪に迷うというように教えます。だから、他の動物には善悪はないわけですね。本来善悪は無いのに、しかし都合が悪いことが悪いことで、都合のいいことはいいことになってしまいますけれども、そういう思いに振り回されて生きておる。本来無いのに、そういう中で、そういう自分の世界を作ってしまう。

  色界(しっかい)というのは、色といった場合は、般若心経では「色即是空」といいますけれども、色というのは全ての現象、形という意味です。それは空であると。空であるということは実体はないということです。我われは諸行無常の人生において、自分を実体的にとらえていく、この諸行の行という字が、現象という意味です。あらゆる形あるものは因縁によって生じ、因縁によって滅する。だから因縁によって生じたものは、必ず因縁によって滅するわけです。生まれて生じたものは必ず滅する。始まったものは終わる、それが諸行無常です。だから、人間だけではありません。一番分かりやすいのは生老病死ですね。生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものは衰える、生身を抱えておれば病は避けられない。生まれたということは死に向かって動いておるということでしょう、全てのものが諸行無常でしょう。父母を縁として私たちは生まれて来ましたから、何を縁にして滅するのか分かりません。病気であるのか、交通事故であるのか、それはその人その人の因縁によります。因縁によって生じたものは因縁によって滅する、だから諸行無常です。だから、諸法は無我だと。法というのは存在という意味です。だから、あらゆる存在は、現象はどんどん移り変わっている。人間であれ全ての存在は、我として握られるものは何一つとして無い、無我ということです。「我」と、ここで言われておるのは、永遠不変の実体。永遠に変わらないものがあるというものを我と言っておるんです。そんなものはない。どんどん移り変わっていっているのですから、永遠に変わらないものは何一つとしてない。しかし私たちは、自分というものが在ると思っています。それを我執(執われ)といいます。無いものを有ると思うから執われです。

   金子大栄先生は、仏教という教えはどういう教えかという時に、「実体観からの解放」という言い方をされますね。私たちは実体的にものを見る感覚がありますから、実体観からの解放を教えるのが仏教だと、こういうことを言われます。それは諸法無我ということですね。形ある現象は、私が思うような形で存在するのではなくて、それは無我なのだと。しかし私は、私なり一切のものが在ると思っている。無いものを在ると思っているわけです。その実体観からいうならば空だと。とらえどころがない。色即是空と、本来は何もないけれども、現に現象としては存在している、つまり空即是色だと。いま今在りますからね。だから無いという虚無的なことではない。在るのは在る。しかしそれは私が思うような形で在るのではないと、こういう意味ですね。それが色即是空という意味ですね。だから私たちは、そういう意味でいうならば、常に我執をもとにした欲に執われている、我欲です。

  色界というのは芸術の世界だといいます。無色界は観念の世界だといわれます。それは哲学・・・・とか。例えば、ここにリンゴがあるとします。お客さんの目の前にリンゴが出てきて、どうぞお上がりくださいと言われた、その時に此方がどういう境界でリンゴを見るかということです。その時に美味しかろうというのは食欲です。だから欲の世界です。リンゴの値段が高かろうというのも欲の世界ですね。美しいというのは芸術的な見方です。色界の世界ですよ。ところが、今度はそのリンゴを見て不思議だと。こういうものがこの世の中に存在するということ自体が不思議だと。キリスト教で言えば、この世の存在は神の力によって生み出されて在ると、こういうかたちでものを見れば、それは無色界です。しかし、それはやはり三界という迷いの世界です。こういうことを仏教は教えます。考えさせられます。 

   三界という、つまり迷いの世界を矜哀したまう。哀れみになるのだと、そしてこの世の中に出興したまうと。つまり、真実からこの世の中へ現れるわけです、真実を知らせるために現れるわけです、それが如来ですね。だから、如来がこの世の中にお出ましになった。何しに生まれられたか、それは道教を光闡してと。つまり道という一代仏教です。沢山の教えが説かれているわけです。釈迦一代にあらゆる教えが説かれるという意味です。それを道教といっているのですね。道教を光闡して、光闡というのは、弘め述べるという意味です。そして一切衆生である群萠を拯い、そして究極が真実の利です、それが弥陀の誓願です。一代仏教の究極です、それが弥陀の誓願です。それが真実の利という言葉で表されているわけです。沢山の教えが説かれておりますけれども、その究極は何を人びとに与えたいのか、ここでは真実の利と言われておるおるわけです。それが阿弥陀如来の本願、弥陀の誓願だと。

  そして、その教えに我われが遇うということは真に値い難いことだと、我われは幸いにして、人間に生まれ、この世に生まれ、この教えに値うということは、ちょうど「霊瑞華の、時あって時に乃し出ずるがごとし」と、まことに遇い難きご縁に私たちはあわせていただいておるのだということを、『大無量寿経』の中に説かれてあるわけです。そういうことから、ここに阿弥陀如来が釈迦として出て来た。その釈迦如来が、この世にお出ましになった所以は、唯この「ただ」という言葉が大事です。「このことひとつ」という意味です。

​正信偈に聞く

 20-2 

​平成21年11月16日

正信偈 20ー2

 唯という言葉を、わざわざ親鸞聖人は「唯心鈔文意」の中で解釈しておられます。

 

「唯」は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。虚仮をはなれたるこころなり。 唯心鈔文意 聖典P547

 

 たくさんのことをお釈迦様は説かれたけれども、所詮は「ただこのことひとつ」を説きたいんだと、そうすると他の教えは方便になるわけです。真実は弥陀の本願です、他の仏教は方便になります。方便というのは、真実に導くための手立てだという意味です。方便という意味は、嘘という意味ではありません。手立てという意味です。

善巧方便(ぜんぎょうほうべん)という言葉があります。だからたくさんの教えが説かれている、しかし、結局は阿弥陀仏の本願に、私たちすべてを帰せしめるために説かれた。ただ説かれたのではない、阿弥陀仏の本願に帰せしめるために説かれた。方便というのが非常に大事なんです。

 私たちはいっぺんに真実に行けるわけではないんです。なんぼ真実の教えを聞いても、すぐにそれが納得できるわけではありません。直ぐにはいただけけないわけです。だから例えば、山に籠って滝に打たれて修行する、これも一代仏教のひとつです。ということは、人間は苦行をして鍛えるといいますか、身体を虐めるといいますか、そういうことによって真実なるものに少しでも近づけるのではないかと、私たちはこのように考えがちなのですね。

 弥陀の誓願といったら南無阿弥陀仏でしょう。南無阿弥陀仏ひとつと言われましても、ただ口で南無阿弥陀仏と言ってどうかなるだろうかというように、私たちは疑い、計らうわけです。しかし、南無阿弥陀仏ひとつという世界が我われに説かれているためには、深いおいわれがあるわけですから、そのことを私たちが本当にいただけるにはなかなか難しい。だから易行難信と言われます。南無阿弥陀仏は称え易いでしょう、だから易行です。確かに南無阿弥陀仏は行じ易いですね、しかし信じ難い。我われは形で厳しく自分を律した方が、自分が教えに近づいているような気いなります。そういう人間の思いに合わせて教えが説かれていくという、そういうところに善巧方便という意味があるわけです。ですから親鸞聖人は「ただ念仏」ということが、本当に納得できるまでには、比叡山二十年の修行が活きたわけです。そのことを親鸞聖人は、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と言っておられます。

 いずれの行というのは、念仏以外の行です。そしてそれが比叡山二十年の修行であったわけです。それによって真に覚りを開くということは困難だと。それは自分自身の機根の問題がある、そして何といっても末法における現代の時代というものがある。だから、自力聖道門で覚りを開くということは不可能だということを親鸞聖人は仰る。そういうことを仰るのは、いろいろな書物をお読みになって、そういう書物の中から一つの理論として、自力聖道門で救われるということは困難だと仰っているのではないのです。

 親鸞聖人、比叡山二十年の修行が「ただ念仏して」という法然上人の教えに深く帰依されるために手立てになっているわけですね。それを善巧方便と言われるわけです。だから親鸞聖人は比叡山二十年の修行は非常にありがたいものだったと、それはむしろ大悲だったと。お育てをいただいたのだと。そして自分自身が念仏よりほかに救われる道はないのだと信ぜしめられたのだと。そういう意味で方便は大悲だと、こういうことを化身土巻には仰っておられますから、だから方便はいらないという意味ではないのです。ここで真実の利は弥陀の誓願だと親鸞聖人がおっしゃるには、非常に深い親鸞聖人のご苦労と信念というものがあるわけです。それが、この『大無量寿経』の出世本懐のご文を読まされたわけです。そして『正信偈』の「如来所以興出世・唯説弥陀本願海」という言葉が生み出される原点になっているわけです。そこで親鸞聖人はこの文を通して、この『大無量寿経』は出世本懐の経であると、他の一切の諸経は、これに帰せしむるための方便の経であるということを明らかになさったわけです。

 

次に『法華経』が引いてあります。『法華経』というのは正式には『妙法蓮華経・みょうほうれんげきょう』というのが正しい言い方です。

 

➁『法華経』(『妙法蓮華経』)

「かくの如き妙法は、諸仏・如来の、時に乃しこれを説きたもうこと、優曇鉢華(うどんばっけ)の、時に一たび現れるが如きのみ。・・・諸仏・世尊は、唯、一大事の因縁をもっての故に、世に出現したまう。」

 

という『法華経』の言葉を、ここに古田先生は引いていらっしゃいます。

 これは法華一乗(ほっけいちじょう)ということが仏教の歴史の中にありわけです。比叡山は天台宗という宗派の総本山です。これは伝教大師が中国に行かれて、中国から日本にもたらされた教えです。天台宗はこの『法華経』を唯一の拠りどころとしている仏教です。当時、遣唐使の中に留学生として、最澄と空海は唐へ行くのです。最澄は天台宗という宗派をもたらして日本に帰って来られます。そして比叡山を開かれるのです。空海は最澄よりも長く中国におられます。そして真言宗という宗派を日本にもたらされます。そして高野山を開かれます。後に朝廷から最澄には伝教大師という大師号が贈られます。そして空海には弘法大師という贈り名がおくられるわけです。  

 親鸞聖人は比叡山で二十年の修行をされます。だから法華経の行者です。私たちは『法華経』といえば日蓮上人を思い出しますけれども、日蓮上人も比叡山で修行をなさった方です。鎌倉仏教という言葉がありまして、法然上人、親鸞聖人は浄土教です。両方とも比叡山で勉強されました。また禅宗を開かれた道元禅師・栄西禅師という方がおられます。こういう人も中国に行って禅宗を日本にもたらされますけれども、二人とも比叡山で勉強しておられます。だから、比叡山というのは当時日本における総合佛教大学だったんです。みな仏教を勉強するために比叡山に登らなければ、仏教の勉強はできなかったんですね。鎌倉仏教というのは非常に面白いんです。比叡山で一宗の御開山といわれる方は、みな勉強なさっているのだけれども、みな比叡山を降りておられるんです。しかも比叡山の教えを、つまり天台宗の教えを弘めないのです。比叡山で勉強なさったのに、栄西禅師や道元禅師は禅宗でしょう。そして法然上人や親鸞聖人は浄土教でしょう。そして日蓮上人は法華経の行者なんですけれども、日蓮上人が比叡山で勉強なさったときは、すでに比叡山は真実の法華経の精神を見失っているというお考えです。だから本当の法華経の精神は私だけしかわからないと、だから日蓮上人は天台宗の法華経の受け取り方を超えているわけです。そういうところからお題目ということを仰るわけです。

 実は『法華経』の中に南無妙法蓮華という教えはありません。日蓮上人が南無妙法蓮華経と、妙法蓮華経に南無する、だから題目といいます。妙法蓮華経という題を称えるわけですからお題目と言うんです。こういうことは法華経の中にはどこにも書いてございません。これは日蓮上人のオリジナルなのですね。そして伝教大師によって弘められた法華経の精神を真に明らかにしたのは私だと、そういう気持ちが日蓮上人にあって、そして比叡山を降りて、日蓮宗という新しい宗派を開いていかれるわけです。これが日蓮上人と『法華経』の関係です。しかしいずれにしましても『法華経』というものを、法然上人も親鸞聖人も、道元禅師も栄西禅師でも、日蓮上人も勉強なさった。この『法華経』は法華一乗という考え方があるわけです。この法華経がお釈迦様の出世本懐の経だという考え方があるのです。これは中国の天台大師智顗(ちぎ)という方が天台宗を開かれるのです。そして、あらゆるお経があるけれども、そのお経の中心は『法華経』だと。一乗というのは、そこに帰するということです。あらゆるお経はそこに帰するという意味で一乗ということをおっしゃるんですね。 

 それに対して親鸞聖人は、それは否定なさらないんですけれども、親鸞聖人は誓願一仏乗ということを言われます。そこに全ては帰すると。そこで言われておる問題は機の問題です。法華一乗といいますけれども、すべての者がこの教えによって救われるかといえば、天台宗ですから聖道門なんですね。だから、本当に一部の選ばれた人の道において、法華一乗ということを言われるわけですから、一つの論理としてはすべての者がこれによって救われるのだいいますけれども、現実において法華経によって救われるかと言ったら、聖道門でございますから、法然上人も親鸞聖人も比叡山を降りられたように、修行し学問なさってもこれによって救われるということは、もう時代が違う。そして我われのような人間では無理だということがあったわけでしょう。

 それに対して南無阿弥陀仏は、すべての者が平等に救われていく、こういうことが法然上人の教えをよりどころにして、親鸞聖人は誓願一仏乗と、つまり出世本懐は如来の本願にある。それはここで言われる「真実の利」と言われるのが如来の本願だといわれる。やはり機の問題だと思いますね。法華一乗といわれるときには、一種の観念論になるわけです。誰でもたすかるというわけにはいかないわけですから。親鸞聖人は、法華一乗を否定なさるわけではないんです。結局『法華経』も方便だと。方便ということは手立てだというお考えがあるわけです。

古田先生は、仏教一般において法華一乗という教えがあるということは何かを、明らかにしたいと思ってここに載せておられると思います。

 

③「本願海」 阿弥陀仏の本願(四十八願)の海のように深く広大な徳。

「五濁悪時群生海 応信如来如実言」

 

とありますが、時間が無くなりました。今日は「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と述べられている部分を中心にお話したわけでございます。

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