top of page

​正信偈に聞く

 22-1 

​平成22年1月19

 『正信偈』は依経段(えきょうだん)が弥陀章と釈迦章の二つに分かれておりまして、最初に「総讃 帰敬」(仏を讃え聖人の信心を明らかにされた部分)として、「帰命無量寿如来 南無不可思議刧」という南無阿弥陀仏の大きなはたらきを、まず初めに述べられます。そして、弥陀章には、その阿弥陀仏の成就なさった名号を、お釈迦様をはじめ多くの高僧のご縁によって、み名を称え浄土を願うものが生まれてくることが述べられております。

「本願の名号は正定の業なり、至心信楽の願を因となす、等覚をなり涅槃を証することは必至滅度の願成就なり」と『正信偈』には述べられております。そして、本願成就の南無阿弥陀仏を私たちに与えてくださるいわれを教えてくださっておるわけです。親鸞聖人の教えは南無阿弥陀仏のいわれを聞き開く信心の教えであるということを、私たちは教えられてきたわけです。そして次の釈迦章では、最初に

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言

 

と釈迦の出世本懐を明らかにされます。「如来所以興出世」とは、お釈迦様がこの世にお出ましになって、いろいろな教えを説かれたけれども、結局は「唯説弥陀本願海」と、だだ弥陀の本願海を説かんがために、群生海にその教えを明らかになさったのである。こういうことを述べられておるわけです。そこに、阿弥陀仏の本願、そしてそれを我われのために説いてくださったお釈迦様、および多くの諸仏のご苦労を述べておられます。そして次に

 

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし。

摂取の心光、常に照護したもう。すでによく無明の闇を破すといえども、

貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。

たとえば、日光の雲霧に覆われるけれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、すなわち横に五悪趣を超截す。

一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり。

この人を分陀利華と名づく。

 

とあります。これは南無阿弥陀仏の信心を得たものの信心の功徳を五つに分けて述べておられるところです。11、証大涅槃の益 「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」

2,五乗斉入の益 「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」

3,心光常護の益 「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」

4、横超悪趣の益 「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」

5、教主歎誉の益 「一切善悪凡夫人 問信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華」

 

 

1、「証大涅槃の益」、これは大涅槃を証すると。涅槃というのは「必至滅度願成就」と。

つまり、真実のさとり、煩悩を持ったままで仏の覚りを得ることができるという利益。

2、「五乗斉入の益」、五乗というのは、すべてのものという意味です。すべてのものが斉しくさとりの世界に入ることができるという利益。

3、「心光常護の益」、如来様の心の光の中に常に護られていくという利益。

4、「横超悪趣の益」、我われが地獄や餓鬼という迷いの世界を横さまに超える。横超というのは他力による。南無阿弥陀仏の本願のはたらきによって、そういうことが私たちの上に果たされるのだという意味で「横」という字が書いてあるのです。順序次第を踏むということを、親鸞聖人は「竪・たて」と書かれました。それに対して横というのは一足飛びということを顕わす。だから横さまに悪趣を超えるという利益。

5、「教主歎誉の益」、教主というのはお釈迦様のこと。歎誉(たんよ)というのは、あり得ないことが凡夫の上に成り立つということ。だからそれを「是人名分陀利華・この人を分陀利華と名づく」と正信偈にありますが、分陀利華というのは稀に咲く華という意味で、信心の人を仏様が誉められるのだという意味です。

 私たちは信心、信心とよく言いますが、普通信心というのは神仏を向こうにおいて、私が私の心で神仏を信じる。そうすると私たちの神仏を信ずる心が神仏に通じて、神仏から御加護をいただく。今日こうして毎日平穏無事に日暮らしができるのは、神仏のお蔭でございますというかたちで信心を普通考えます。親鸞聖人の教えはそういう教えではないわけです。

 親鸞聖人の教えは南無阿弥陀仏のおいわれを聞き開く信心。南無阿弥陀仏にはおいわれがある。そこに阿弥陀如の本願、そして名号という、我われを救わずにはおれんというおいわれがある。救うということは「大涅槃を得る」、仏のさとりを得しむる。涅槃というのは滅度ということ。我われの苦しみ悩みを超えた世界、迷いのなくなった世界、それを大涅槃と。だから仏教という宗教は涅槃を求める宗教です。幸せになるとかならんとか、他に御利益を求める、そういうことをいっておる宗教ではないというこては度々申しました。だから、そういう教えではない。南無阿弥陀仏の信心はどういう功徳があるかということを五つ上げて、いちいち『正信偈』には述べておられるわけです。

 今日は信心の功徳について一つずついただいておるということになります。まず釈迦章の信心の功徳が述べられておるところでございます。

 

能発一念喜愛心 よく一念喜愛の心を発すれば、

(一念の喜びの心を起こすことができれば、)

不断煩悩得涅槃 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

(煩悩をなくさないままで涅槃のさとりが得られるのである。)

 

(4)「一念」 ひとおもい。阿弥陀如来の本願を信ずる念い。

 

信心のことを「喜愛心」といってあります。

 

(5)「喜愛心」喜ぶ心。一念の真実信心。自分におよんでいる本願他力のはたらきを感謝

し喜ぶ心。「信楽」と同様の心。「隋喜心」とも云われる。

『正信偈』「善導章」には「慶喜一念」(慶喜の一念)と詠われている。

 

ここでは「能発一念喜愛心」と、一念の信心を単なる信心という言葉でいわないで、親鸞聖人は「喜愛心」と言っておられます。信心というのは喜ぶ心、つまり如来様が私たちのために本願を建て、名号を成就して、その名号を私たちに与えるかたちで大涅槃を得しめてくださる。そういう信心。だから信心は単なる一念の信心ではなくて喜愛心だと仰っておられるわけです。感謝して喜ぶ心と古田先生は書いておられます。

 

(6)「煩悩」 人の心や身体を煩わせ、悩ませ、汚し、混乱させる精神作用。煩悩はその作用によって「惑」「染」「漏」「結」「縛」「纏・まどう」「蓋」「繋」「塵」などと訳されることがある。人には一〇八種の煩悩があるとされる。そのうち最も深刻な煩悩を「貪欲・瞋恚・愚痴」の三毒煩悩という。

 

 三毒の煩悩は根本煩悩といわれますが、そこからいろいろなものが出てくるわけです。それを一〇八数えてありますから百八煩悩といわれます。これは、我われに馴染みの深い除夜の鐘です。梵鐘の梵は清らかなという意味です。清浄という意味が梵ですから、百八の煩悩を打ち破って新年を迎えようという行事が除夜の鐘です。除夜の夜という字は無明という意味を表しております。我われの心の暗さを表すのが夜です。数珠でもそうです。正式な数珠の球数は百八あります。そして数珠の玉を貫いているのが糸ですから、その糸が教えを表します。つまり教えが切れると煩悩はバラバラになるわけです。

 現代という時代は、煩悩がばらけている時代なのかもしれません。とにかく便利であればいいとか、快適であればいいとか、みな煩悩ということですが、煩悩という問題は大きな問題です。その根本煩悩が貪欲・瞋恚・愚痴です。貪欲は貪ると書いてありますから限りがない。あってもあっても満足がないというのが貪欲です。人間の欲望はそういうものでしょう。だから次々に求めて行くわけです。清沢先生の言葉でいえば、

 

外物を追うは貪欲の源なり、他人に従うは瞋恚の源なり。 「絶対他力の大道」

 

「外物」を追うということは、外へ外へ求めるわけでしょう。「他人に従う」ということは、他人を当てにするということだと思います。他人を当てにすれば腹立たんわけにはいけません。思うようになるとは限りませんからね。向こうは向こうの都合があるわけですから、お互いがお互いを求め合うと厄介な問題になるわけです。だから利益が共通している時は仲良くしますが、利益が合わんようになったら喧嘩になります。貪りますから瞋恚は怒り腹立ちです。愚痴は愚かさ。真理に暗い、道理に暗い心という意味です。ですからあらゆる迷いの根本は愚痴なのです。愚というのは「おろか」、痴というのは「たわけ」という字です。道理に暗いという意味が愚痴です。道理に暗いから貪欲になるわけです。満足がないという意味です。だから満足がないから腹を立てる。そうすると争いはなくならないわけです。それをずっと繰り返しているというのが私たちの在り方だと思います。だから「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということは矛盾しているわけです。煩悩をもっているのが凡夫です。悪業を重ねていく。煩悩をもとにして、そして業を重ねていくわけです。それが凡夫の迷いの姿です。だからそれを断ずる、断ずれば涅槃です。涅槃というのは「必至滅度」ということで以前勉強をしました。 

正信偈 22ー2

​正信偈に聞く

 22-2 

​平成22年1月19日

(19)「大涅槃」 「涅槃」は、ニルヴァーナの音写。「滅度」と訳される。

「(火を)吹き消すこと、吹き消された状態」。煩悩を火に喩える。

 

 煩悩が燃え盛っている、その火がぱたっと消える。消えた状態を涅槃というと古田先生は仰っておられます。ですから涅槃というのは、煩悩の火が消えた状態を言っておるわけですから、煩悩があって涅槃を得るということは、論理としては矛盾になるわけです。煩悩があるのが凡夫で、煩悩のないのが涅槃ですから、つまり仏の境涯という意味ですから、煩悩を断ぜずして涅槃を得るということは、論理的に矛盾しておるわけです。それを私たちの上に明らかにしてくださるのが、南無阿弥陀仏の信心なのだと、こういうように仰っておるわけです。それがどういうことなのかということを、ここで私たちがいただかねばならない問題なのです。

 「煩悩」ということについて、古田先生は「惑・わく」まどう、「染・ぜん」そまると仰っています。つまり清浄なるものが色に染まってしまうという意味です。「惑染凡夫信心発」の惑染です。「漏・ろ」は雨漏りという。漏れるという意味で、有漏(うろ)・無漏(むろ)という言葉がありまして、仏の覚りの世界は無漏、我われの迷いの世界は有漏という言い方があります。「結・けつ」は、むすばれる。つまり心が解放されていないという意味です。私たちの心がいつも何かに括られている、煩悩のために私たちの心は縛られている。「縛・ばく」も、しばられるという意味です。「纏・ばく」もそうです。「蓋・がい」は蓋がされている、のびのびしていない。「繋・け」は、つながれておる。「塵・じん」は、ちりです。みな煩悩をあらわす言葉です。煩悩をいろいろな面から状態、様子をいっておるわけです。「惑染の凡夫」とか、「有漏の凡夫」とか、如来の大悲は「無蓋の大悲」という言葉があります。「一切の業繋ものぞこりぬ」、煩悩のことをいっている言葉です。我われは心や身体を煩わされて悩み、そして汚れて常に混乱させる、そのもとが煩悩だということを仰るわけです。 

 私たちは煩ったり悩んだりするのは、「外物・他人」によって、煩わされ悩まされていると考えています。つまり、私の思うようになれば心は安らかなのだけれども、いつも私の心が安らかであろうとしてもそうさせないものが外にある。だから、私を煩わせ悩ます外のものを排除していく、そうすることで私に安心や快適な状態を保とうとするのが外道です。

 仏教は内観の道です、私たちの常識は外道の道。内観の道というのは、私を煩わせ悩ましておるものを私の中に見ていく。内に見るから内観です、それを外に見るから外観です。人間の文化は外道といいます。すべての障害を外に見るわけです。外物他人に見て、外物他人の都合の悪いものを排除して、都合のいいものだけを受け取っていこうとする。そういう外観です、これは切りがない。何故かといえば、外にものを見せているものは煩悩なのです、我執煩悩といいます。俺がという執われた心で、外へそとへと向いていきますから、我執煩悩です、これは切りがないわけです。その方向を転じて、我が身自身が「煩わされている我が身とは何か、一体もとはどこにあるのか」と内に帰っていく道が仏教です。仏教の基本的な教えとして「四聖諦・ししょうたい」が説かれます。

 

(四正諦)

  • 苦諦―四苦八苦―生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦

  • 集諦―渇愛・かつあい

  • 滅諦

  • 道諦

 

 「諦」というのは「あきらめる」という字ですが、私たちが諦めるという時には「しょうがない、だから諦める」といいますが、仏教でいっている諦めは「あきらかに極める」という意味です。ですから、この四聖諦を苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)と言っておるわけです。これは非常に論理として解りやすいわけです。

人生は苦である、それを「苦諦」というのです。生老病死を四苦といいます。生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものは必ず衰える、生身を抱えていれば病は免れない。しかし生あるものは必ず死に帰すということは自然です。いつまでも生きておるわけはない。何時までも若くはない。そして生身を抱えていれば病は免れない、これが四苦です。この四苦の後に四つを加えて四苦八苦といいます。生・老・病・死・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)。

 

 「愛別離苦」とは、愛するものと別離していかなければならない苦しみ。これは生別、死別があります。生き別れがありますし、死に別れがあります。だから人生は別れと出会いだとよく言います。いつまでもというのはあり得ないわけです。諸行無常です、愛しい者と別れていかなければならない苦しみ。「怨憎会苦」は、怨み憎しむ者と顔を合わせなければならない苦しみです。怨み憎しむもの同士が顔を合わさなければならない苦しみです、「求不得苦」は、求め得ることができない苦しみ。私たちは外へそとへと求めて行きます。外物他人です、しかしそれが思うようにいくとは限りません。むしろ思うようにいかない方が多いでしょう。私たちは、幸せを求めずには生きてはいけません。幸せを求めるのが人生の意味になっているわけですから、幸せを求めれば求めるほど幸せではありえないという、幸せになれないというものを常に抱えています。そしてこれは物質だけには限りません、人間の愛情を求めて得られない。ですから本当の満足というのは人間にはない。「五蘊盛苦」は、「ごうん」と読んでいますが、我われの肉体を構成する要素を五つ数えておるんです。その五つの要素が盛んな苦しみ。死が一番怖いのですが、病気も大変です。しかし身体が元気だということも人間の苦しみをもたらすもとになっている面があります。いつまでも長生きして若いというのも問題です。現在百歳以上の人が日本には四万人以上いるそうですが、これが政治の大問題。しかし、それはみんなが求めたことです。だから人間の世界というのは矛盾を免れません。何故かといったら、人間は我執だからです。あるがままを、あるがままに受け取れない、自分の思うようにならなければ安心できない。だから外に求めて行く。人生はどちらに転んでも苦だと、それを「諦」あきらかに極めるというわけです。

 「集諦」というのは集める。苦を苦にしているものは何かという意味です。苦は果です、苦を苦にしているものが因です。それが因果になっておるわけです。苦を苦にしているものは何か、という意味で集めるという字を書いてあるわけです。それを渇愛と言っています。仏教の愛というのは、愛着とか愛執とか、人間の執われの心を愛といいますから、いい方には言っていません。「渇・かつ」は、ちょうど喉の乾いた者が塩水を飲むようなものです。飲んでも、飲んでも渇きが止まらない、そういう人間の執着です。しかも、それが自己中心です。我執煩悩ですから、それを渇愛と言っています。それが苦を苦にしているもとだと。苦を苦にしているもとは外にあるわけではない、苦を苦にしているもとは内にある。それが人間の中にある渇愛だと言っています。これが内観です。だから生老病死が人を苦しめているのではないのです、生老病死に苦しむ私がおる。その私とはどうなっているのか、私についての研究をしていない。外ばかりの研究をしていく、それが人間の造っている文化です。それは外道です。そういうことを仏教は言いたいわけです、だから生老病死は自然なのです。  

不思議なご縁で、私たちは父母を縁にして生まれて来ました。人間の計算を超えています。しかし生まれて来たということは、死を約束されているということです。何故死ぬかと言ったら、生まれたから死ぬわけです。だから死という結果の因は生です。病気ではないのです。病気は縁です、死は果です。それを縁といいます。縁というのは今の言葉でいえば条件とか環境という意味ですから、生あるものが死に帰するということは免れないわけです。いつ・どこで・どんなかたちで死が来るのか、それが縁です。だから病気も縁によるわけです。交通事故も縁によるわけです。小さい時に亡くなるというのも縁によるわけです。百過ぎて亡くなるのも縁によるわけです、条件ですから。だから死の原因は病気ではないのです。生まれたということが死の原因です。生あるものは必ず死に帰す。ただ因縁果ですから、どういうご縁で死という果が来るのか分かりません。これが仏教です、それが内観という意味なのです。

 生あるものは必ず死に帰す、これは自然ですから皆避けられないわけです。だから、それを在りのままに受け取るものには苦はないという教えです。生まれて来たということは死は免れない、老も免れない。それを本当に煩悩のない澄んだ心で受け取るものには苦はないのでしょう。あるがままですから。ところが我われはあるがままではないのです。汚れているわけです。何に汚れているかといったら、我執煩悩に汚れているわけです。我執煩悩でものを受け取っていくわけですから、都合のいいことは引き受けられるが、都合の悪いことは引き受けられない。都合のいいことが増えるように拝むものが信心だといえば、その信心は迷いを深めていくというかたちになります。だから邪教というのです。しかし、信心によって、我が思うようになることを願っている、それは人情として善い悪いじゃないのです。祈らずにおれないで祈っておる人を見て、あの人は馬鹿というわけにはいけません。例えば正月に初詣で神社に行って参られる人を見て、あの人は馬鹿かといえば、それは言いすぎですよ、凡夫同士ですから。しかし、そういうことを通して、私たちが何を明らかにしていかなければならないかということを言おうとするのが仏教です。そういうことを基本的にはっきりさせておきませんと、煩悩を断ぜずして涅槃を得るといわれましても、私たちは煩悩によって苦しみ悩んでおるわけですから、それが明快になるという方向が滅度の方向に行くわけです。決定的に内観によって。煩悩が迷いだということがはっきりすれば、苦しみ悩みが超えられるわけです。だから、煩悩がなければいいでしょうということでは問題にならないわけです。我われがなぜ苦しんでいるのか、欲があるからでしょう。それは私たちにとって答えにならないわけです。だから「灰身滅智・けしんめっち・煩悩 (ぼんのう) を断ち、身も心も無にして執着を捨てること。上座部仏教の理想とする境地。」という在り方は、お釈迦様の教えを正しく受け取っていないのではないかという受け止め方が出てきて、私たちは煩悩という生活を通して、涅槃をどこで受け取っていくのか。それは出家・在家を選ばないというとらえ方が、仏教の歴史の中に出てきます、それを大乗仏教といいます。その時に、煩悩に即して涅槃を得る、覚るという方向が出てくるのです。

正信偈 22-3

​正信偈に聞く

 22-3 

​平成22年1月19日

 「煩悩即菩提」は、菩提は覚りということです。即は煩悩と離れないということです。だから、煩悩を無くすれば、むしろ菩提も明らかにならない。だから死ぬというかたちで菩提・涅槃というものを受け取るのは、これは抽象的でないか。本当は、煩悩に即して菩提を明らかにしていくということが、正しいお釈迦様の教えの理解ではないかというのが大乗仏教のとらえ方です。そして、煩悩を断ぜずして涅槃を得ると親鸞聖人がおっしゃるのは、この煩悩に即して菩提を明らかにしていくという方向を言ってあるのです。

だから、煩悩を徹底して知るということは、知らしめる真実に遇うということです。煩悩がなくなれば、煩悩を煩悩と知らせる真実もないのですから、煩悩を煩悩と私たちが本当に気づけば、即そのまま実は覚りではないのか。だから煩悩を無くしてしまえば、本当は覚りも無くなる。死ねばということは抽象論になってしまう。

現にお釈迦様自身覚られたのは、死んで覚られたのではないんです。お釈迦様は二十九歳で出家して、三十五歳で覚りを開かれます。八十歳で亡くなられるわけですから、三十五歳から八十歳までの四十五年間のところで覚りを教えられるわけでしょう。そうすると、お釈迦様のさとりというのは「灰身滅智・けしんめっち」ではないのではないか。そしてこれは一種の観念論ではないのか。

そうではなくて、煩悩は私たちの存在自体です。生きているということは、煩悩をもっているということですから、煩悩と一体なのです。しかし徹底的に煩悩具足の凡夫と自分自身を知るということは、人間の分別理性では不可能です。人間は煩悩具足の凡夫だと気づかせるものがあるならば、私を超えて人間の理性を超えて人間にはたらいておる、そのはたらきに遇った時に、はじめて私たちは煩悩具足の凡夫と身を投げ出して生きていける。それは投げ出さしめたものに出遇っている。そう知らしめるはたらきを、親鸞聖人は如来の本願といただかれたわけです。

 如来の本願が、煩悩を断ぜずして涅槃を得るという世界を私たちに知らせる。これは、私が知るというようなものではなくて、私を超えて私にはたらいておる真実が私を尽くした。煩悩具足ということは、私の全部ということです。私にいいところもあり、悪いところもあるというのではなくて、実は私が生きているということは、煩悩具足以外の何物でもない。しかし、人間の分別理性というのは、いい面と悪い面を造っていくわけです。これはいいけど、これは悪いとなっている。その全体を煩悩具足の凡夫といわれるわけです。そういう世界がどうして私たちの上に成り立つのか。親鸞聖人は、

 

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。 一念多念文意 聖典P545

 

 これは有名なお言葉です。我われ凡夫が生きておるということは無明煩悩、どこまでいっても目が覚めない、深い迷いをもっている。それが凡夫として生きている姿だというわけでしょう。しかし、そういう私を私として見切るということが、私に成り立つかということです。私たちは善いか悪いかで生きています。煩悩ということを本当に私の生活の基本にきちっと見定められるというようなことは、あり得ないのではないでしょうか。ところが、親鸞聖人は、自分自身を凡夫と、無明煩悩の我らだと仰っておられるということは、私の全体が尽くされているということです。

 人間の心にはいい心もあるし悪い心もある。前回お話ししました白楽天が、鳥巣禅師(ちょうそうぜんじ)に仏教とは何ですかと尋ねたら、「諸悪莫作・諸善奉行・自浄其意・是諸仏教」と言われた。そうしたら白楽天は、そんなことは三つ子でも知っていますといった。そうしたら鳥巣禅師が「三歳の童子これを知るといえども、六十の爺これを行うことを得ず」と。何故かといったら、善いことをしたという「した俺」がおるわけです。ですからせっかく親切にしても、相手がありがとうと言わなければ「せんとよかった」ということになるわけですから、心が清くないわけです。そこに私たちの大きな問題がある。だから同じ善をしても「雑毒の善」である。こういう課題を非常に細かくおさえて、「私とは何か・自己とは何か・人間とは何か」ということをおさえてくるのが仏教です。

 しかし、そういうことを、私の理性で徹底的におさえることができるかといったら不可能です。聞いて少し分かったという話ですから、これは不可能です。私を煩悩具足の凡夫と見通して、その者を涅槃の世界にわたらせようとして、南無阿弥陀仏を成就して、我が名を称えよと呼びかけてくださった如来の真実だけが真実。それが、私に何を教えるかというたら、徹底的に救われようのない我が身を教えてくださる。その時に、私たちの人生の方向がひっくり返る。ああしたこうしたという世界から、逆にご恩の世界に人生が変わってくる。煩悩即菩提と聖道門の仏教はみなそうおっしゃいます。煩悩即菩提です、大乗仏教ですから。それが、本当に我われのような者の上に、善を徹底的に尽くすということは人間には無理でしょう。人間を超えて、人間にはたらいて、そして人間をして本当に煩悩具足の凡夫と、自己を投げ出していけるほど大いなるまことが、私の上に明らかにならないならば、私たちが救われるということはありません。そういうことが信心として「よく一念喜愛の心」といわれるところの中身になっているわけです。こういうことが信心の利益の中身になっているのです。

 要するに「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのは、真宗だけではありません。ただ凡夫が凡夫のままで、煩悩を断ぜずして涅槃を得るというのは真宗だけです。真宗以外は凡夫を卒業せねばならないわけです、それが煩悩即菩提になっているわけです。そして、それが徹底できるのかというと、これは大変な問題でしょう。我われは普通の日暮らしをしながら煩悩即菩提、つまり煩悩を断ぜずして煩悩に即して滅度を覚るということを、私の上にせしめるものが如来の本願、南無阿弥陀仏だと。私たちがそれに眼開くということが南無阿弥陀仏の信心。だから、これが南無阿弥陀仏の信心の功徳の第一番だと、それが仏教だということを言っておられるわけです。基本はそういうことです。

 煩悩即菩提といっている意味は、煩悩を断ぜずして涅槃を得る、凡夫は凡夫のままで命終わるときに浄土に生まれて仏になるということが、今ここで明らかになる。必至滅度です。私がここで仏になるわけではない。だから私たちはどんなものが出てきても不安はないわけです。どんな煩悩が出てきても、どんな業が出てきても不安はないわけです。かかる我が身を我が身と如来は言い当ててくださった。そして「見よ」と私に教えてくださっている、それが南無阿弥陀仏だということを。この教えに出遇わしていただいた、もしこの世でこの教えに遇っていなかったならば、嘘をいうか、限りなく自己弁護をしていくか、誰かのせいにして生きていくしかない。しかし、そうする必要がない。南無阿弥陀仏で本当の安心と満足を与えてくださることができる。こういうことが一つの基本になるわけです。一応「信心の利益」ということを五つ上げてある中で、一番初めのところを申し上げたわけでございます。

bottom of page