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​正信偈に聞く

 23-1 

​平成22年2月23

今日は前回に引き続きまして、「信心の利益」ということが述べられておるところでございます。

 

能発一念喜愛心 よく一念喜愛の心を発すれば、

(一念の喜びの心を起こすことができれば、)

不断煩悩得涅槃 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

(煩悩をなくさないままで涅槃のさとりが得られるのである。)

 

ここは信心の利益でいいますと、「証大涅槃の益」と言われているところで、信心の利益の第一番目でございます。煩悩を断ぜずして涅槃を得るということについては、前回お話申し上げたのですが、今日は皆さんのお手元に刷り物を作っておきました。これは九州大谷短期大学の名誉教授をしておられました宮城顗先生の著書で『正信念仏偈講義』第二巻の中の「釈迦章」のところの引文です。不断煩悩得涅槃というところで、「分別起(ふんべつき)の煩悩と倶生起(ぐしょうき)の煩悩」ということを述べておられるところがございます。

 

 「分別起の煩悩と倶生起の煩悩」

 

煩悩には、分別起の煩悩と倶生起の煩悩の二種があると仏教は説いています。分別起というのは、誤った思想を持った先生とか、まちがった考え方。そういうものの影響で身に付けた煩悩のことです。これは過ちに気づいて正しい教えに触れれば、たちまち断ち切ることができる。つまり、まことの道に出会ったその時に断じられるということで、これを見道所断(けんどうしょだん)といいます。それに対して倶生起の煩悩というのは、無始以来といわれておりまして、いつから始まったとも言えない。私の命とともに、あるいは私の命の歴史とともに身に沁み込んでいる煩悩です。命を持ってこの世に生まれたときに、ともに抱えて生まれてきた煩悩なのです。

これは分別起の見惑(けんわく)に対して、思惑(しわく)という言葉が使われるのですが、思惑の思は情的、感情的なすがたにまでなって現れるものです。理性的な惑いは、非常に激しい形を取りますけれども、根は浅い。だから納得すれば消える。しかし情的な惑いは、わかってもずっと根を引いているのです。それはそうだけれどもといったり、話はわかるのだけれどもという、その「ども」なのです。ですからこれを藕糸(ぐうし)、つまり蓮根の糸にたとえられます。蓮根は、いくら切っても糸がずっと引きます。つまり切れたと思っても、なおあとを引いているのが藕糸です。

倶生起の煩悩というのは、切れたと思ってもなおずっとあとを引いているから、これはもう毎日毎日の歩みの中ですこしずつ断ち切っていくほかない。それを修道所断(しゅうどうしょだん)と言います。長い修行の果てにようやく断ち切ることができるものだということです。これは聖道門仏教、仏教一般の立場から、倶生起の煩悩は修道所断だというのです。

それに対して浄土門仏教は、倶生起ということをもっと深く見詰めておりまして、「煩悩成就せるありて」といってあるように、この世に生まれてからの修行ぐらいで断ち切れるものではないと見るのです。

見道所断にしても修道所断にしても、煩悩は分別起にしても倶生起にしても、聖道の立場からいいますと、現に犯した過ちにおいて考えているのです。すでに造った行為において煩悩を云々している。それに対して浄土門仏教、特に親鸞聖人にあってはまだ為していない行為を問題にされるのです。『歎異抄』に「そくばくの業をもちける身」ということばもこういう意味を持っているわけです。第十三条には「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という有名なおことばもありますが、これが未だ為してはいないが、縁によっていつでもあらわになってくる煩悩の身の自覚を表白されたおことばなのです。「いまおれは罪をおかしていない」と、いくら威張っていても、縁が起これば、なにをしでかすかわかりません。「いかなるふるまいも」するものとして親鸞聖人は自分を見詰めておられるのです。

ですから、もし煩悩が全部断ち切れなくては救われないのなら、私たちにおいて救いは成り立ちません。仏教一般の言い方からいえば、煩悩を断じ尽くした境地を涅槃というわけです。涅槃、二リバーナとは煩悩の火を吹き消すこと、あるいは吹き消した状態を表すのですから、煩悩を断じたのが涅槃でありまして、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなどということは、おおよそあり得ないことです。煩悩と涅槃は相対極、まったく正反対のことばです。煩悩がなお盛んであるならば、それはけっして涅槃ではない。涅槃であるならばん、煩悩はないはずです。

それを曇鸞大師(どんらんだいし)は、浄土のいちばん最初の徳、清浄功徳のところでこのことばを挙げておられるわけです。つまり浄土とは、煩悩を断ぜざるものをして涅槃を得しめる世界だといわれているのです。それはしかし、煩悩を断じなくてもそのまま涅槃を得られるといわれているのではありません。私は、この「不断煩悩」の「不」と「断」の間にも「得」という一文字を入れて読むわけです。「不得断煩悩得涅槃」、煩悩を断じ得ずして涅槃を得るのです。

煩悩を断じ得ずということは、悲しみがあるのです。どこまでも煩悩を断じ得ざる自分というものに深い悲しみがある。その悲しみにおいて、ひたすら本願を信ずるほかない身にされる。そういう願心の世界として清浄功徳、浄土の徳というものを曇鸞大師は挙げておられるわけです。

こういう不断煩悩ということが、次の「凡聖逆謗斉廻入」ということばと重なってくるわけです。これは、親鸞聖人御自身のおことばでは、

「不断煩悩得涅槃」というは、不断煩悩は、煩悩をたちすてずしてという。得涅槃ともうすは、無上大涅槃をさとるをうるとしるべし。「凡聖逆謗斉廻入」というは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提みな廻心

して、真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海にいりて、ひとつあじわいとなるがごとしとたとえたるなり。これを「如衆水入海一味」というなり。

と『尊号真像銘文』に注を付けておられます。    正信念仏偈講義第二巻P87~90

 

 前回、煩悩ということについてお話を致しました。そして「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということについてお話をしたわけですが、ここで宮城先生が特に「分別起の煩悩と倶生起の煩悩」というかたちで煩悩の問題を挙げておってくださるのは、非常に大切なことと思ってここに出したわけでございます。分別起というのは人間の分別です。人間の考えですからその考えから起こる煩悩。誤った思想を持った先生とか、間違った考え方、そういうものの影響で身に付けた煩悩だということが書かれています。

 ある人を信ずる、そしてその人の考えが非常に極端であるとか、反社会的な考えであっても、何かその人を信じて、その人をよりどころにして、いろいろな煩悩を起こす。オウム真理教などは殺人までしましたからね。その時その人の心の中にはどこかで迷いがあったと思いますし、矛盾もあったと思いますけれども結局はそれに押し流されていく。後で自分が間違っておったということに気づく人も多かったようです。中には最後まで麻原彰晃を信じておるのだという立場に立とうとした人もおったようです。それはオウム真理教に限らず、我われもどこかで極端な考え方になるということは決して起こらないわけではありません。

 例えば正直者は馬鹿を見るという言い方は、本当は分別起の煩悩なのです。だから正直者は馬鹿を見るといっている時には、自分の心の深いところではおかしいと思っていても、結局はそれを自己弁護するという、本当は素直な心ではないのです。だからそういう意味で、正直者は馬鹿を見るという思いを支えているのは人間の欲の心です。何をもって正直というかとか、何をもって真実というかとか、そういう難しいことはお互い分かりませんけれども、この世の中は矛盾に満ちているわけですから、何か思想的にもいろんな煩悩を起こす。  

三毒の煩悩は貪欲・瞋恚・愚痴です。貪欲というのは、限りがない欲望、その欲望は金や物だけではありません。五欲というぐらいですから、物質的なものに対しても、愛情というものに対してもあるわけです。ですから愛欲というような言葉もありますから、そういう煩悩を起こす。そういう煩悩は分別起の煩悩だといいます。これは正しい教えに会って、本当に間違っておったと、私は大きな間違いを犯していたということになれば、そういう意味で懴悔が起きれば変わるわけです。それは転換ができるわけです。ところが懴悔が起こればいいといいますが、これもなかなか難しいのです。人間が悪かったといっても、それをみんなが分かってよかった、あなたが気がついてくれてよかったといってくれればいいのですよ。しかしそれをまた責められれば、悪かったと言ってるではないかと変な心が出てくるでしょう。お嫁さんとお姑さんが上手くいかないところが、お嫁さんがお寺で話を聞かれて、やっぱり自分が姑さんに辛すぎた、厳しすぎたなと思われたのでしょう、家に帰って姑さんに詫びられたそうです。「今までの自分の生き方は本当に済まん事だった赦してください」と。お嫁さんが言いなさった。そうしたらお嫁さんの心の奥に「いやあなただけじゃない、私も同じです」と言ってもらえるだろうという思いがあったのでしょう。ところが姑さんは「分かればよか」と言うたそうです。つまり姑さんはお嫁さんの期待したような態度でなかった。そしたらお嫁さんは何かムカムカして、もうこの人とは一緒におれんと思うたそうです。人間というのはそう簡単に悪かったと言い切れないものを持っています。ですから分別起という煩悩は浅いわけです。その時に「悪かった」といっておりながら、「分かればいいよ」と言われた途端ムカムカする、それをここでは倶生起といってあります。だから分別起の煩悩は断じられる、転換できるところを転動所断といっているのです。ところが倶生起の煩悩という、倶というのは「もと」という字です。「生と倶に」あるというのですから、これは非常に深いわけです。

 

倶生起の煩悩というのは、無始以来といわれておりまして、いつから始まったとも言えない。私の命とともに、あるいは私の命の歴史とともに身に沁み込んでいる煩悩です。命を持ってこの世に生まれたときに、ともに抱えて生まれてきた煩悩なのです。

 

とあります。

正信偈 23ー2

​正信偈に聞く

 23-2 

​平成22年2月23日

 真宗でよく使われる言葉に「無始以来・むしいらい」とか「曠劫・こうごう」とか「五劫思惟・ごこうしゆい」とか「兆載永刧の修行・ちょうさいようこう」とか言われます。こういう表現をされるのは、実はこの倶生起(ぐしょうき)の煩悩に苦しむ衆生の救いを成就される阿弥陀如来のご苦労を語るものです。ですから阿弥陀如来のことを「光明無量・寿命無量」といわれます。これをひっくるめて阿弥陀と言っておるのです。光明というのは智慧をあらわす、真実の智慧です。人間の分別の知恵ではありません、さとりの智慧です。そして寿命というのは慈悲をあらわすとこういわれます。ですから智慧無量・慈悲無量です。

 私たちの人間の分別の上に立った知恵とか慈悲というのは限りがありますし、我執に縛られますから自己本位になってしまうわけです。いつでも私たちの知恵というのは自是他非というかたちになります。いつも自分が是で向こうが非です。そういうかたちでしかはたらかない。だから自己中心、それを我執というわけです。仏の智慧はそうではない、完全なる絶対の智慧ですから、それを光明と言います。

 その智慧と慈悲は一体のものなのです。相手をただ可愛いというだけであったならば、智慧が背景にありませんから本当の慈悲にならないわけです。智慧と慈悲が一体になっている、それを阿弥陀というわけです。だから智慧無量・慈悲無量といわれるわけです。ところが諸仏といわれるように阿弥陀仏以外にも多くの仏様がいらっしゃいますけれども、それらの仏もみな智慧と慈悲を具えておられるわけです。これがなければ仏とはいわないわけです。ですからどのような仏様も覚りは同じだといわれます。それらの仏は自らが覚りを開かれ仏になられる。そうしてその覚りを人びとに説いていかれる。人々がその教えに感銘して、みんながそのようになるために修行をしていく、自力聖道門というのはみなそうです。皆の本当の依りどころになる、ここが明らかにならなければ救われませんよということを明らかにしているわけです。だから光明無量・寿命無量なのです。これはすべての仏がそうなんです。

 親鸞聖人は『教行信証』の真仏土巻の中で、阿弥陀仏とその浄土はともに四十八願の中の十二願と十三願であらわされております。もともと浄土というのは阿弥陀如来の浄土だけが浄土という意味ではないのです。諸仏もそれぞれ浄土を持っておられるわけです。阿弥陀仏が他の諸仏と違うのは、十二願と十三願とを誓われていることです。何のために誓われたのかというと、先ず我が身自身のために仏となり浄土を建立されるのです。それは自分自身に救う力がなければ衆生は救えないわけですから、しかしそれはどこまでも衆生のために自らが十二願と十三願を建てた。そしてこの世界を与えるために十七願を建てた。つまり南無阿弥陀仏を諸仏にほめられたいという十七願を建てた。これが「本願名号正定業」です。  

 そしてそれを真受けにすることができる衆生の信心の問題が十八願です。十八願というのは、つまり南無阿弥陀仏が誓ってあるわけです。何故十七願があるのかといったら十二願と十三願の功徳全体をそのまま衆生に与えたい、それが南無阿弥陀仏です。だから衆生と仏は離れないわけです。そのことが非常に強く表現されて、南無阿弥陀仏の六字のみ名が成就されているというところに、阿弥陀仏と他の諸仏との違いがあります。

 

願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、 『歎異抄』十一章聖典P630  

 

 こういう仏は阿弥陀如来だけです。他の仏様の場合は、自ら成就したその浄土に生れて来い、そのために自分も修行をした。だから苦行と学問を修して来いと言われるわけです。これが諸仏です。阿弥陀仏は十二願と十三願を成就しておられるわけです。それはどこまでも一切衆生のために仏身を成就し浄土を建立され、その全体を衆生に与えたいと。つまり阿弥陀如来と苦悩する衆生との因縁をとくに願いの中に込めておられる。そこに四十八願のもっている意味があるわけです。

 私はよく子供のころにお説教で、如来様と私たち衆生との関係を親と子の関係で説いておられました。これは間違ってはいかんのですが、人間の親は子供に対して光明無量・寿命無量ではありません。しかしこの関係をなぜ喩えていうのかといったら、親と子は離れられない関係にあるからです。つまり子供が生まれなければ親にはなれないし、子供が生まれた時に親になる。親になるということは、子供との因縁を通して親が親になっていく修行がそこからはじまるのです。今いろいろ起こっている親子の悲劇というものを見ますと、子供をもって母親になったが、親になり切れない女の人が増えたのかもしれません。

 今朝の新聞でもみましたが、福岡のどこでしたか幼い女の子が殺されました。その女の子はお母さんの連れ子だったそうです。そして男性の方は無職で家にいて母親がアルバイトいっている間に、子守父親に任せていたようですが、子供は父親から度々虐待を受けておったようです。そんなことは母親には分かっていたはずですよ、そんなことわからなければ母親ではないです。そのことは分かっていたでしょうけど、下手なことをいうと男に捨てられるという女が強く働いて母親としての修行になっていないわけです。昔から連れ子して結婚なさるということは決して少なくありませんでした。それもまた御因縁ですから。その時に、子供にとって実のお父さんを知っておれば、相手の男の人をお父さんと言って懐くだろうか。どんなに優しく言ったって、子供にとって本当のお父さんではないのですから、昔の母親は心配して苦しんだでしょう。今はそういうことを心配し悩めないお母さんが増えてきているように思います。女として男に捨てられたくないという思いの方が先行して、殺された子供との関係が中心になれなかったということは親になっていないわけです。こういうことは結構雑誌などで記事になっているのを読みます。その時に小学校に行くような子供でしたら、何か問題になった時に子供は親を庇うといいますね、虐められていないと。そうすると非常に子供は可哀そうです、だから親子になるということは非常に難しい。

阿弥陀如来という仏様は、衆生を離れて自分自身が成り立たない、だから仏様が仏様であるためには、衆生が救われてもらわなければ自分が自分になれないという、それが本願ということだとこういう意味です。それで考えに考えて、どんな人でも救われていく浄土を建立して、その浄土に生まれる道を成就したのは名号だと。

 

誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、 (『歎異抄』聖典P630)

 

 南無阿弥陀仏なら誰でも言える。「たもつ」ということは、道を歩いておろうと仕事をしておろうと、夜の目覚めにだって南無阿弥陀仏は言える。そこで、この名を通して阿弥陀の本願、大悲に気づいて欲しいと。南無阿弥陀仏と申すことによって親に気づいて欲しい、気づいてもらった時に親がたすかる、子供がたすかれば親がたすかるんです。親と子が離れない、そういう因縁を表しておるのが、特に他の諸仏と違う阿弥陀仏の大きな特徴です。だから四弘誓願といいまして、どんな仏様にも誓願というものがあるわけです。阿弥陀如来以外にも四つの誓願がありますから四弘誓願です。

 それに対して阿弥陀如来は四弘誓願をつつんで、特に四十八願を起こされたのです、だからこれを別願といいます。特別な願です。久遠という人間の迷いのもとをずっと辿っていって衆生を救おうというわけです。だからここでいうならば、倶生起の煩悩が特に阿弥陀如来にとっては大きな問題になるわけです。こういう意味を私たちは南無阿弥陀仏のおいわれのところでいただいていかないといけません。考えてみますと久遠とか五劫とか兆載という言葉が表現されているところに、衆生と阿弥陀仏との深い因縁、特に阿弥陀如来の大悲が表現されているということは非常に大事でございます。

 私は毎日本堂でお勤めをしまして、お内仏では曽我量深先生の「実語抄」を何十年繰り返し巻き返して拝読しております。だからいつの間にか身に着くわけです。その言葉の中に曽我先生が、「阿弥陀如来以外の仏様は、我われがこの世に人間として生まれって来てからの因縁だ」と。仏様にはこういうご利益があるそうだと聞くと、私たちはそのお寺を探してお参りに行くわけです。だからこの世に生まれて来てからの因縁だとおっしゃるのです。面白い表現だと思って印象に残っておるわけです。だから他の仏様や神様と同じように、阿弥陀如来と私との因縁というものを、この世に生まれて来てからの因縁だと考えていくと非常に分かりにくいのです。そこで何が問題かと言ったら倶生起が問題です。分かっただけではかたづかない、修行や学問などでかたづくようなものではないものを私たちは抱えている。だからお寺のお説教でいわれますけれども、それはそうだけれども、はなしはわかるけれどもと、「ども」ということが非常に大事な問題になります。藕糸(ぐうし)というのは蓮根の糸のことですが、

 

倶生起の煩悩というのは、切れたと思ってもなおずっとあとを引いているから、これはもう毎日毎日の歩みの中ですこしずつ断ち切っていくほかない。それを修道所断(しゅうどうしょだん)と言います。

 

 分別起の方は見道所断といい、倶生起の方は修道所断といったわけです。私は以前久留米の梅林寺に行きました時に、僧堂で若い作務衣を着た人が一生懸命掃除をなさっておられました。頑張んなさると思ってみていました。脚下照顧(きゃっかしょうこ)という言葉がありますが「顧」というのは「かえりみる」という意味で脚下を見よと。だから朝起きた時から夜寝るまで非常に厳しい生活を禅宗の方はなさるでしょう。

正信偈 23-3

​正信偈に聞く

 23-3 

​平成22年2月23日

 親鸞聖人が比叡山二十年の間苦しまれたのはこの問題でしょう。親鸞聖人は常行三昧堂

の堂僧(どうそう)でした。今も比叡山に常行三昧堂(じょうじょうさんまいどう)というのがあります。比叡山というのは東塔・西塔・横川という所があって、皆さんが比叡山に行かれると根本中堂とか講堂というのがあります。あれが東塔です。奥の方に西塔というのがあります。それから横川というのがあります。源信僧都(げんしんそうず)は横川におられました。常行三昧堂は東塔にも西塔にも横川にもあったのです。親鸞聖人は横川で堂僧をしておられたようです。今は東塔も横川もないのですが西塔にあります。親鸞聖人が常行三昧堂で念仏しておられた時の念仏は、阿弥陀如来の本願というような念仏ではないのです。

三昧いうのですから「さんまい」というのはサンスクリットでサマーディと言います。音写です、意味は定です。御堂の真ん中に阿弥陀さんが座っておられます。一尺六寸あるそうですから見上げるような阿弥陀さんです。その周囲を回るようになっているんです。親鸞聖人が生まれた日野家の菩提寺の法界寺は常行三昧堂になっています。宇治の平等院鳳凰堂というのがありますけれども、あの寺と同時期に法界寺は建っています。定朝(じょうちょう)という同じ仏師が造ったと言われます。だから貴族は比叡山でできた教えの姿を自分のところに取り入れているわけです。我われは戦時中ゲートルというものを足に巻いていましたけれども、比叡山では竹を細く割ったものを紐で繋いで巻きつけるそうです。でないと足がむくんでしまうそうです。そして足袋をはいてお念仏しながらずっと回るそうです。寝ないから柱と柱の間に大きな竹が渡してあって、それにすがる様にして休む、食事も制限されていて一心に念仏三昧の境地を求める。仏教は無我ということを教えるわけですから、山の念仏というのはそういうものを極度に制限していって、心の自由を得ようとするわけです。そうしながら阿弥陀如来の大悲がはたらいているという考えではないのです、聖道門ですから念仏して恍惚の世界へいこうというわけです。だから体験はあるだろうと思います。そういうことを繰り返しているうちに、はっと人生は本当に迷いだなとか、人間の生き方は傲慢な生き方だなということに気づかされて、身をそこに投げて懴悔するというような体験は有るのであろうと思いますよ。しかしそれが日常生活の中まで生きていかなければいかんでしょう。

 禅宗は庭を掃いたり廊下を拭いたり、それは全部禅だといわれます。そういう問題は全部倶生起の問題です、これが本当に徹底するのかという問題です。そうしますと在家の生活ではできないですよ、これは問題になりません。そうすると仏教が一握りの人の教えになってしまいます。そこに聖道門ではない浄土教、つまり阿弥陀如来は私たちの心の親ですから。親の大悲というものが常にはたらいておって、親の大悲の中におりながら、小さな我執分別にふりまわされているのが我われの日暮らしです。親の大悲が我が名をよんで欲しいと呼びかけながら、それにそっぽを向いて自ら自分をつくっておるのだということが、本当に明らかになるまで大変です。そうしますと、私がどんな煩悩をもっておってもそれが問題にならない。それが不断煩悩という意味です。

 

それを曇鸞大師は、浄土のいちばん最初の徳、清浄功徳のところでこのことばを挙げておられるわけです。つまり浄土とは、煩悩を断ぜざるものをして涅槃を得しめる世界だといわれているのです。

 

 これはとても印象に残った言葉でした。だから阿弥陀如来の浄土というのは、衆生の真の救いを願って成就された浄土なのです。そうしますと衆生の問題は全部尽くしたわけです。どう尽くしたかというたら、煩悩が断じられるようならば衆生は苦しまないわけです。そのことを尽くして、しかもそれを超えて浄土を造るわけです。だから「煩悩を断ぜざるものをして涅槃を得しめる」世界だといわれているのです。何かそこに宮城先生の表現というものがあるような気がします。

 

それはしかし、煩悩を断じなくてもそのまま涅槃を得られるといわれているのではありません。私は、この「不断煩悩」の「不」と「断」の間にも「得」という一文字を入れて読むわけです。「不得断煩悩得涅槃」、煩悩を断じ得ずして涅槃を得るのです。

煩悩を断じ得ずということは、悲しみがあるのです。どこまでも煩悩を断じ得ざる自分というものに深い悲しみがある。その悲しみにおいて、ひたすら本願を信ずるほかない身にされる。そういう願心の世界として清浄功徳、浄土の徳というものを曇鸞大師は挙げておられるわけです。

 

私たちは煩悩を断じ得ない。親鸞聖人でいえば、

 

また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。 『歎異抄』聖典P629~630

 

 そこに断じ得ない悲しみがある。その悲しみは如来の大悲が私の上にはたらいておる悲しみです。私たちは悲しまないで開き直るのです。例えば「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」ということがあった。しかしそれは人間だものと、悲しまないでしょう。これは誰の言葉か分かりませんが、教区で考えた標語です。「念仏の灯をかかげ、ともに悲しみの時を生きん」という、これは久留米教区の七五〇回御遠忌の標語です。本山の標語は「今、いのちがあなたを生きている」。それが教区で批判がありまして、なぜ念仏をいわないのかと。いのちといったら、普通のいのちを大事にしましょうという「いのち」に受け取られてしまう。そうすると一種の神秘主義になってしまいます。南無阿弥陀仏となぜ言わんのかと。本山の言おうとしてる「いのち」は無量寿を言おうとしているわけです。だけどそれは受け取り難いわけです。全国的にいろいろ意見が出たのです。そうしたら各教区でつくって欲しいと、だから教区で標語はそれぞれ違うんです。

 人間は悲しまないのです。自分の思い通りにならないときは悲しみます。しかし私の嫌いな人が悲しんでいる時は「あいつがあんなことはありそうなことや、私も前から思いよった。いい気味たい」と、口には出さないけれどもそういう思いはあります。だから本当の悲しみは、どういうかたちで出てくるのかというと、如来の大悲が私にとどいた時だと。だから我われの煩悩を悲しむ心は、私の心の上に起こった心ですけれども、私を超えて、私にはたらいておってくださる如来の大悲がとどいた心だと。つまり親の心に気づいた子供の悲しみです。こういう意味があるわけでしょう。宮城先生はここでそういうことを仰ろうとしているのだと思います。

 

煩悩を断じ得ずということは、悲しみがあるのです。どこまでも煩悩を断じ得ざる自分というものに深い悲しみがある。その悲しみにおいて、ひたすら本願を信ずるほかない身にされる。そういう願心の世界として清浄功徳、浄土の徳というものを曇鸞大師は挙げておられるわけです。

 

 そういうところから「凡聖逆謗斉廻入」と自ずから出てくるわけです。今日は「不断煩悩得涅槃」ということを、宮城先生は「分別起と倶生起」というかたちで仰っておられたものですから、これを皆さんと一緒に勉強することで煩悩の問題を深めていこうと思ったわけです。今日はこれで終わりたいと思います。

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