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​正信偈に聞く

 24-1 

​平成22年3月26

 今日は信心の利益の第二番目、五乗斉入の益に入ります。五乗というのは、すべての人という意味です。すべての人が等しく本願の大海に入る功徳ということです。

 

凡聖逆謗斉廻入 凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、

(凡夫も聖者も、五逆や謗法の者も、同じく心をひるがえせば、)

如衆水入海一味 衆水、海に入りて一味なるがごとし。

(あらゆる川の水も、海に入れば同じ味になるようなものである。)

 

(9)「凡」凡夫のこと。自ら引き起こした煩悩によって悩み苦しんでいる者。また自分が煩悩によって苦悩していることすら知らない愚かな者。

 

 私たちの苦悩は自分の外から与えられたものと考えてしまうわけです。あの人が私を苦しめるからこうなる、だからあの人と会わなければ苦しみはなくなるように思う。しかし本当は苦しめているものが私の中におるということです。そういうことが分からない。そういう者を凡というと言ってあります。

 

(10)「聖」聖者のこと。一切の煩悩から解放され、汚れない智慧を具えた人。

(11)「逆」五逆の罪を犯した者。非仏教的行為をなす者。

五逆―①害父(父を殺す)②害母(母を殺す)③害阿羅漢(聖者を殺す)④出仏身血(仏身を傷つける)⑤破和合僧(サンガの調和を破る)

五濁の例―阿闍世王・提婆達多

 

 阿羅漢というのは、お釈迦様のお弟子のことで阿羅漢果という覚りを開いた人です。破和合僧の僧は、現在は私のように袈裟をかけているものを僧侶と言います。しかしもともとは仏教で僧というのは、「サンガ」と仮名で書いてありますけれども教団のことです。仏教によって集まった教団のことを、インドの言葉でサンガといいます。このサンガを音訳で僧伽と書きます。今の言葉でいいましたら教団という意味です。法を覚った人を仏と、仏によって覚られた道理のことを法といいます。仏法によって集まった教団のことを僧伽といいます。その僧伽の和合を破る、教団の和を乱すという意味です。逆は順に対する言葉です。つまり、子供として父・母に従うべきものに反抗していく、背いていくという意味で逆という言葉が使われるわけです。我われが真理に従うことによって、真に救済を得べきものが反逆的に生きる。そういうことを五逆といっているのです。その五逆の例として「阿闍世王・あじゃせおう」とか「提婆達多・だいばだった」が挙げられていますが、これは『観無量寿経』の教えが説かれる発端となった王舎城の悲劇に出てくる人々です。

 阿闍世というのは、マガタ国の王様である頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)とお后の韋提希夫人(いだいけぶにん)との間に生まれた息子です。提婆達多というのは、お釈迦様の従兄弟になります。お釈迦様のお父さんと提婆達多のお父さんが兄弟です。それがお釈迦様の弟子になるのです。頻婆娑羅王は、お釈迦様がさとりを開かれる前からご縁があったといわれます。そしてお釈迦様がさとりを開かれてからは、お釈迦様に深く帰依します。お釈迦様の僧伽はいわば新興宗教です。その新興宗教であるお釈迦様の教えが、あっという間に国中に広がっていくわけです。それはお釈迦様のお徳により、多くの優れた人たちがお弟子になったということもありますが、なんといっても当時のインドの政治・文化の中心であったマガタ国の頻婆娑羅王という外護者(げごしゃ)があった、後ろから大きな支えがあったからだと言われております。その教団をお釈迦様から取って代わろうと考えた人が提婆達多です。しかし、お釈迦様の後ろ盾には頻婆娑羅王がついているわけです。だから自分がこの教団の主になるための後ろ盾がいるわけです。そこでお釈迦様の外護者である頻婆娑羅王をどうかしようと思ったわけです。そこで提婆達多は頻婆娑羅王の息子である阿闍世をそそのかし、阿闍世によって頻婆娑羅王を殺させる、自分はお釈迦様を亡き者にする。そして自分の外護者に阿闍世をマガタ国の新しい王になってもらう。そして自分がお釈迦様に取って代って、新しい教団の主になろうと謀ったといわれています。やがて阿闍世は提婆達多の野心を知らず、そそのかされて父の王を捕らえて牢屋に入れて餓死させようとします。

 子供が父親を殺し、自ら父に代わって王になろうとするわけですから、今の言葉でいえばクーデターです。この事件は非常におかしいのですが、頻婆娑羅王を阿闍世が牢獄に閉じ込めて、そして門番をつけて食べ物を運ばせないようにするわけです。しかしその時大臣は動いていないわけです。韋提希は驚いて、こっそり王のもとへ食べ物を運ぶわけです。そして機会を見て阿闍世をいさめようとしたのでしょう。そうとは知らない阿闍世は二十一日経過して、もう父は死んでいるだろうと思って牢獄にやって来て、守門のものに「父の王、今になお存在せりや」と聞くのです。どんなに丈夫な父親でも食べ物を与えないで二十一日経っているのですから、死んでいるはずだと思って聞くのです。そうしたら、まだ生きていると。それは韋提希夫人がこっそり食べ物を運んでおられる。そしてお釈迦様のお弟子がやって来て教えを説いている。心はお釈迦様の教え、そして食べ物は奥さんが運んでくれる。だから「顔色和悦」、まだお元気だと。阿闍世はそれを聞いて非常に怒るのです。

 阿闍世の計画を邪魔したわけですから、阿闍世はカンカンに怒って、そして母を殺そうとします。お経には書いてありませんけれども、善導大師は『観無量寿経』について詳しく解釈した観経疏(かんぎょうしょ)という書物に書いておられます。それを見ます「哀れなるかな。」と言っておられます。息子が母親の髪をつかみ引きずり回して怒りをあらわにする。そして剣を母親の胸に突きつけると、母親は膝を折って合掌し自分の子供に命乞いをするのです。そこに耆婆(ぎば)と月光(がっこう)の二人の大臣が駆けつけるのです。王を牢獄に幽閉した時はそれを止めなかった大臣が駆けつけるのです。そして「やめなさい」と厳しくいさめるのです。二人とも新しく王になった阿闍世王に向かって剣を構えるのです。

 その時に大臣が「位」ということを言っているのです。王を牢屋に入れて殺そうとする、それは王には位があるからだというのです。だからその位を取って、自分が王位に着こうとする、だからクーデターです。客観的にいえば父親の政治より息子の政治の方が良くなるかもしれないわけです。大臣は位があるというのです、だから頻婆娑羅王の幽閉を止めていないのです、ところがお母さんには位はないのです。自分の夫が牢屋に入れられているから食べ物を運ぶというのは当たり前のことだと、それは政治とは無関係である。しかも阿闍世王にとって母親というのは命のもとではないか、それを思うようにならんから殺すということは許せることではない。それは人間のすることではないといっていさめるのです。そこではっきりしないのですけれど『観無量寿経』の表現では「よろしく此に住すべからず」とあり、そういう人は王様とは言えないから王宮から追い出すというようにも聞こえるのです。もう一つは王がそういうことをするならば、私たちは大臣としてあなたを支えない、私たちが出ていってしまうと、何ともいえない言い方なのです。どちらにしたってあなたは王様だ、しかしそういうことをする人は王様とはいえない。そういう人を王様にしておくわけにはいかない、また私たちもあなたを王として支えることはできないと云うのです。なかなか微妙な言い方なのですね。

 そこで阿闍世は母親を殺すことをやめます。そして座敷牢のようなところに入れて、母韋提希が頻婆娑羅王に食べ物を運ばないようにするわけです、王はそして餓死させられます。だからそこで阿闍世は父を殺し、母を殺すという、その類型として五逆「害父・害母」ということがテキストに書いてあるのです。一方提婆達多はお釈迦様を殺そうとするわけです。お釈迦様が山道を通っておられる時に、山の上から石を転がして殺そうとするのですが、お釈迦様に直接当たらないで足の指を傷つけられたといわれます。だから仏身から血を流すといってありますけれども、それは一つの具体的なことなのです。またインドは象を常に使役でつかうわけですから象が多いわけです。その象に酒を飲ませて酔っぱらった象をお釈迦様に仕向けるわけです。しかしお釈迦様を殺すことはできませんでした。阿闍世は後になって提婆達多に騙されておったということに気づいて改心するわけです。このことは『観無量寿経』には出て来ません。この事件の阿闍世の改心の問題は涅槃経に出てきます。親鸞聖人は涅槃経のその部分を、『教行信証』の信巻の終わりの方に引文しておられます。

 第十八願には抑止文(おくしもん)というのがあるのですが、すべての者は如来様を信じて一声でも念仏申すものは、必ず私の浄土の国に生まれさせようということを誓ってあるのです。しかし、その十八願の最後には「唯除五逆誹謗正法」と、ただ五逆と正法を誹謗する、謗る者を除くという抑止文というのがあります。親鸞聖人がその抑止文の意味について論じておられるところに、涅槃経の中で阿闍世が父殺しの罪に深く苦しんで改心するということが説かれているところを、『教行信証』信巻に長々と引いておられます。(聖典P251~271)『観無量寿経』では韋提希が主人公になります。お釈迦様に会い、お釈迦様の教えによって救われていく、やがて頻婆娑羅王が亡くなった後の阿闍世の救済の問題は涅槃経に出てきます。涅槃経の主人公は阿闍世になります。そういうことをふまえて、ここに古田先生が五逆のところに「五逆の例」として、阿闍世王と提婆達多と書いておられます。これが王舎城の悲劇で語られるわけです。

正信偈 24ー2

​正信偈に聞く

 24-2 

​平成22年3月26日

⑫「謗」「誹謗正法」正法を謗る者。反仏教的行為をなす者。『仏説無量寿経』真宗聖典18頁』

「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんを除く。」

「唯除」が抑止の文。

 

 一声でも念仏申すものは、必ず私の国、浄土に生れさせて仏にしようということを誓っておられるのが『大無量寿経』の第十八願です。だから「不取正覚」、すべての者を救おうと言っておられるのですけれども、次に「ただ五逆と正法を誹謗せんをば除く」という言葉が入っておるわけです。だからテキストに「唯除」は抑止の文と書いてあります。すべての者を救うという本願でありながら、最後のところに「唯除五逆誹謗正法」という言葉が入っておるわけです。これを抑止文といって抑止というのは「おさえる・とどめる」という意味です。だから、わざわざ抑止文というものが入っているわけです。

 

⑬「回入」 心を回らせて真実に帰入すること。自分の分別の心を転じて他力の念仏に帰入すること。「廻心」ともいう。

 

 「凡聖逆謗斉回入」ですから、凡夫も聖者もまた五逆の者も、そして正法を誹謗する者も、そのまま救うとは書いてないのです。斉(ひとしく)回入という言葉が大事なんです。回らしているのです。ですから善をなすものは善を誇るという心があります。悪をなしたものは、開き直ったり人のせいにしたりして、なかなか自分自身の在りのままを投げ出すということは非常に難しい。だからそういう者を如来の本願の前に善人は善人、そして悪人は悪人、その自分の分別心を転じて、その心を投げ出してひとえに如来の真実に依っていく。それが「回」ということです。そうすれば「入る」のです。だから、そのままという意味ではないのです。これは非常に大事な問題です。

 『歎異抄』には正しい悪人こそが、お念仏の教えの正機なのだという意味で悪人正機といわれます。その時に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、善人でさえ救われるのだから、悪人が救われないということがあろうかという言い方です。ところが「世のひとつねにいわく」、つまり世間の人はどういうかと言ったら、悪人がたすかる、だから善人がたすからんことはないというのです。世間の人はそうでしょうね。あんな奴でもたすかるのだから、私らがたすからんということがあろうか、つまり悪人だってたすかるのだから善人がたすかるのは当然だと。ところが親鸞聖人はそうじゃない。善人でさえたすかるのだから、悪人がたすからんことはないと仰るわけです。しかし、そこでいわれる悪人というのは、「他力をたのみたてまつる悪人」となっておるのです。ただ悪人と言ってあるのではないのです。善人悪人を並べて、こっちが善いと言ってあるのではないのです。どういう悪人かというたら、他力をたのみたてまつる悪人です。他力というのは如来の本願力回向です。如来の他力をたのまない、たから本願の正機ではないのだと、こういうことを『歎異抄』第三章にはいってあるわけです。「本願をたのみたてまつる悪人」と言ってあるわけです。これが非常に大事なのです。

 ある時、私たちの友人の間で話題になったことがあるのです。親鸞聖人の教えは悪人こそ救おうという教えだろう、そうしたらオウム真理教の教祖の麻原彰晃のような人間もたすかるのかということが論議になったことがありました。麻原彰晃はサリンをまいて人を無作為に殺しました。これは世界にもそういう例はないというので、大きな問題になりましたし話題にもなりました。麻原彰晃に帰依してサリン等をまいたのはインテリです。大学も出てお医者さんもいましたからね。そのお医者さんは、ある病院に勤めていて非常に患者さんから慕われておった優しい人だったと言われております。それが生活ぐるみオウム真理教に入って、サリンをまくような殺人事件を起こすわけですから、その一番のもとは教祖の麻原彰晃です。しかし麻原彰晃は「私がみんなを惑わして恥ずかしい、悲しいことをしました」とは言っていないのです。裁判中も何か分からないことを言っていたというようなことは皆様もご存知ですね、そういう悪人だと。その悪人がたすかるのかと、こういう話でした。そうするとあの人がたすからんのなら、親鸞聖人の教えは本当に悪人正機にならんではないかという論理を建てる人もおるのです。

問題はそういうかたちで、あの人はたすかるか、たすからんかというようなことを親鸞聖人は言っているのではないのです。麻原彰晃が他力をたのみたてまつる悪人なら救われますよ。つまり自分のしたことを通して、そして自分が苦しむ、何と自分は愚かなことをしたのだろうかと苦しむ。その苦しんでおるものが如来の本願にあって、救われるはずの無いものが救われる。それは人類全体の前に手をつく、その手をつく心は如来の本願からいただくわけです。人間はなかなか手をつきません。悪かったといっても誰かから、それを重ねて言われたら、だから悪いと言っているじゃないかと開き直ったりします。私が悪かばってん、相手がどうかしてくれたらといって、他人のせいににして責任転換したりするという根性は抜けません。それを自力の心と言ってあるのです。だから自力の心ふり捨てすて、ひとえに如来の真実のまことに依っていく。そこに本当に救われようのない我が身ということが言えるわけでしょう。

 前回申しましたように、宮城先生が「煩悩を断ぜずして」というのではなくて「断じえずして涅槃を得る」と、断じ得ずというところに悲しみがある。その悲しみは、如来の悲しみと感応するのだと宮城先生は言っておられました。だから回入という問題があるのです。つまり沢山の河があってもみな海に入れば同じ味になるということです。「衆水海に入りて一味なるがごとし」と。衆水というのは一人ひとりの宿業です。しかし、そこに回入ということがあるということが大事です。だから悪人といっても、他力をたのみたてまつる悪人ということが大事な問題なのでしょう。その点を抜きにすれば、善人がたすかる、悪人がたすかるということは一般論になってしまうわけです。本当に親鸞聖人の教えと真向きになっている話ではないわけです。これは大事な問題だと思います。

 

⑭「衆水」 あらゆる河川の水

 

 度々申し上げておりますように、いろいろな人が、それぞれの宿業を生きるわけですが、煩悩があるからたすからんということではありません。豪が深いからたすからんということではありません、煩悩を断ぜずして涅槃を得るのです。それは深い煩悩の自覚なのです。どこまでも煩悩を離れない我が身を、我が身と知らせてくださった大悲の前に回入していく。廻心して本願海に私たちが入れしめられる。そうすれば、その人の宿業がたとえどんな宿業であっても、それは問われない。そこに如来の大悲があるのだといっておられるわけです。それが「五乗斉入の益」といわれる意味なのです。ここで大事な問題は回入ということです。 

 先ほどから『観無量寿経』の話をしておりますが、その中で韋提希は王妃さまではありますけれども、仏教的にいいますと単なる一人の女性です。だから善導大師は、韋提希は王妃ではありますけれども特別な人ではないのだと。「実業の凡夫」という言い方をしてあります。つまり業の塊です。何も特別な人ではないということを善導大師は言っておられます。『観無量寿経』の教えは、韋提希がお釈迦様の教えの導きによって救われていったということなのですけれども、そこに一経二宗という、つまり一つのお経の中に宗旨が二つあると言っておられます。一つは「定散二善・じょうさんにぜん」、二つは「念仏」です。定善という教えは十三願になっています。定というのは心を静めるという意味です。息慮凝心(そくりょぎしん)と親鸞聖人は言っておられますけれども、心を凝らして一心に真理を観念する。おもんばかりを止めて一心に心を凝らす、それを定善と言っておられます。それが十三通りにわたって説いてあります。これはお釈迦様が韋提希にどうして真理を覚ってもらうかということで、少しずつ易しいところから諭していかれるのです。お釈迦様という方はすぐれた宗教家であることはいうまでもありませんが、またすぐれた教師ですね。はじめは分かりやすいところから説いていかれる巧みさをお釈迦様の教えに感じますね。心静めて真理に目覚めていく道を、十三通り書いてあるのが定善ですけれども、はじめに太陽が西に沈んでいく、その太陽を心に思い浮かべるという「日想観・にっそうかん」が説かれます。朝にお日様が昇っていく時は、私たちも今日一日がはじまるわけですから希望に満ちているといいますか、心が高揚しているでしょう、ところが日中すぎて夕方になって一日が終わるわけです。そうすると何となく私たちの心が、今日一日の反省というか、やがて一日が終わろうとするときに、心が外に向くよりも内に向くでしょう。その方向に覚りの世界である浄土があるのだと説かれます。そのように定善が十三通り教えられるわけです。だんだん方法が難しくなっていくわけです。

 それから散善ということが説かれます。散善を「廃悪修善・はいあくしゅぜん」と言っておられます。悪をやめて善を修めるという意味です。散心というのは定心と違いまして、私たちの日常心のことを言っているんです。日常心というのは見れば見るものに心が動く。だから散心というのは我われの普通の心です。普通の心のままで仏様になる種まきをしていこうという善です、だから悪をやめて善を修める。その時に定善の場合は善自体を教えられるのですが、散善の場合は人間を九通りに分けます、九品(くぼん)といいます。

 

(九品)上品・じょうぼん(上品上生・上品中生・上品下生) 中品・ちゅうぼん(中品上生・中品中生・中品下生) 下品・げぼん(下品上生・下品中生・下品下生)

 

 散善は人によって違うわけです。その人の能力とか人柄によって違うわけです。上品は極めて優れている人々です。それに対して下品の人は極めて悪の強い劣った人々です。もう一つは念仏が説いてある。念仏は定善のところには出て来ません。散善も上品、中品は出て来ません。下品に二つ出てくるんですけれども、善導大師も法然上人も一番注意をなさったのは下品下生(げぼんげしょう)です。最低の人間のところに出てくるのが念仏です。

正信偈 24-3

​正信偈に聞く

 24-3 

​平成22年3月26日

 正信偈のお勤めをするときに「極重悪人唯称仏・ごくじゅうあくにんゆいしょうぶ」というところがあるでしょう。その極重悪人といってあるところが下品下生のところなのです。極重悪人唯称仏というのは『正信偈』の中では源信僧都のお徳を讃嘆されたところです。源信僧都の『往生要集』には「極重悪人無他方便」という言葉になっています。他の方便無しという、その時の方便というのは手立てという意味です。嘘という意味ではないのです。もう他に手立てがない。極重悪人の救われる道は、他の方便はない。ただ仏のみ名を称える、それ以外に極重悪人の救われる道はないのだということを言ってあるのが「極重悪人唯称仏」です。その時に源信僧都は「極重悪人無他方便」と言ってあるのです。これは非常に大事なのですけれども、曽我先生は、

 

お念仏すれば助かると言うておるのではありません。

お念仏より他に救われる道はないのだということを申しております。

 

この二つの言葉は、言っておられることが違います。その意味が無他方便ということです。だから、「唯称仏」ただ仏のみ名を称えよという、そういうことを言われる根拠が下品下生なのです。ここに出ているお念仏なのです。

 

不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるがごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。 『観無量寿経』 聖典120頁

 

というのです。善は何一つしなかった、悪しか作らなかったということです。その愚人というのは、世の中を生きていく正しいものの考え方のできない人という意味です。悪人と書いてないのです。愚人と書いてあるのです。不善造悪の愚人が臨終のときに苦しみだす。私はどうせ地獄より他に行くところはない、しかし地獄にはいきたくない、たすけてくれといって苦しみだす。それが臨終です。そして下品下生の愚人は、何一つ善いことをしたことがない人間。悪いことばかりした人間、そういう人間は平時の時は開き直って生きています。どうせです。誰でも悪は好まないですよ、やっぱり人間は悪を憎んでいます。しかし悪人だと自他ともに認めざるえない人間であっても、それでもやっぱり比べていきます。俺がこうなってしまったのは親が悪かったとか、俺の境遇が悪かったとか。それは深い悲しみをもって云うているわけですけれども、俺もこういう人間になるはずではなかった、しかしお前におれの苦しみが分かるかと。どこかで人のせいにしたり、比べたりして、善いとか悪いとか言っているわけです。

 こんな話を聞いたことがあります。田舎の芝居小屋で忠臣蔵をやっていて、沢山の人が見に来ていたそうです。忠臣蔵の起こりは、浅野内匠頭が吉良上野介の嫌がらせに我慢ができなくなって、殿中であることを忘れて吉良上野介に斬りつけるわけでしょう。それが事の起こりです。そこのところを芝居でやっているわけです。これも本当だったかどうだか分からないそうですよ。忠臣蔵の蔵という言葉も芝居から出てきた言葉だそうですから、本当はよくわからないそうです。吉良上野介がこれでもかと嫌がらせをするわけです。ですから浅野内匠頭が堪忍袋の緒が切れて刃傷沙汰をする、その手前のところで観客はみな吉良上野介を憎い奴だと思って芝居を見ているわけです。その時一人の男がいきなり棒切れをもって舞台に飛び上がって、吉良上野介に討ちかかっていったわけです。吉良上野介といっても本人は役者さんですからね。びっくりしてしまって舞台の上を逃げ回って、観客も騒然となって芝居がめちゃめちゃになってしまったわけです。それで警察に電話して、警官が二人やって来て、その男を取り押させて警察に連れて行ったら、本人は興奮しているわけですよ。そして本人からよく聞いてみたら三日前に刑務所から出てきたばかりだというんですね。その男はどう言っておるかというたら、「俺は悪か、しかしあんな奴はもっと悪い」と言って興奮しているわけです。つまり現実と芝居の混乱がおきておるわけです。その人は、自分が悪いとわかっている、わかっとるばってん俺よりもっと悪い奴がおると。人生の矛盾ということですよ、それを皆知っておるわけです。だから悪を犯した人ほど、善悪のことに敏感なんですね。私らは善人と思っているから案外敏感でないのね。一番下に落ちているものは敏感なわけです。しかし、それは対人的なかたちで言っているわけです。相対的な世界でいっているわけです。ところが臨終に苦しむということは、他人との関係ではないのです。自分の人生そのものが問われているわけです。人がどうのこうのという話ではない。これでは死ねないという、だから自分の人生そのものが問われているわけです。それを問うているものは何かということです、人間はそうなっているということです。犬や猫は苦しまないですよ、ところが人間は臨終が来ると苦しむ。それは他人の問題ではないのです、自分自身そのものが問われているわけです。

 話を『観無量寿経』に帰ります。その愚人の臨終のところに善知識が説かれています。その善知識の教えによって、その愚人が救われることが説かれます。善知識というのは偉いお坊さんとは限らないと思います。周囲にいて、仏法にご縁のある方であればいいわけです。可哀そうだと、だからどうかして助けてやろうとします。そして、その時に念仏ということが出てくるんです。しかし、そこで念仏というのは仏を念ずる、仏を心に念ぜよと教えられます。だから善知識が苦しんでいる愚人に対して、阿弥陀如来という仏様がお浄土を建立して、すべての者をそこへ迎え取ろうと思っていらっしゃる。だからお前は、その如来様に救われるより他にたすかる道はない。だから仏様のことを思え、お浄土を心に思い浮かべよと、こういうことを善知識は教えられるんです。ところが愚人の心は海の吹き荒れたような心をしていて、ただ、たすけてくれ、たすけてくれと言っているわけです。仏様のことを思えと言ったって思ってみようがないわけです。だから苦しむばかりです。そうこうしていたら死んでしまうでしょう。だから善知識自身が追いつめられるわけです。

 

善友告げて言わく「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。 『観無量寿経』 聖典P120

 

 南無阿弥陀仏と仏のみ名を称えよと、称名念仏がそこに出てくるのです。だから、お経には書いてありませんが、私は善知識自身が名を称えてやったと思っています。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と称えたら、愚人も南無阿弥陀仏とお念仏を称えるのです。そうして臨終に如来様のお迎えがある。永遠に地獄を彷徨うであろう罪が消えて、浄土に生まれたということが下品下生に説いてある、そこに注目しているのです。つまり私たちが善い悪と言っているのは世の中と比べていっているわけです。人間を外から見ているわけです、私たちはみなそうです。自分といいながら自分さえ外から見ているわけです。そして善いとか悪いとか言っているわけです。しかし深いところで、俺も悪いとは思っているけども、人間の思いは定着しないわけです。しかしここまでくると、そんなこと言ってはおられんのです、もう必死ですよ。また人のせいにこうなったとか言っている間は、まだ追いつめられていないわけです。本当に追いつめられたらそれどころではないのです、私自身がたすからない。そこが仏教の信心の基本です。だから親鸞聖人は『歎異抄』で、

 

「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と

『歎異抄』 聖典P640

 

 自分の人生でありながら、自分の人生を外から眺めて、人と比べて見ておったものが、それが間に合わなくて、火を噴くようなかたちで迫って来ているわけです。それは大きな悲しみです。「そくばくの業をもちける身」というのは、何でこんなに情けない私なんだろうかといっているんじゃないのです、それは如来の大悲と繋がっている心です。人間はそこまで来て、我が身自身を悲しむ心というのは、如来の大悲、本願が人間にはたらいているからです。だから前回お話をしました。「阿弥陀如来様以外の仏様は、この世に人間として生まれてきてからの因縁だ」と。ところが阿弥陀如来と私たちとの関係はそうではない。阿弥陀如来は、私が生まれる前から、曠劫の昔から私に本願をかけておってくださった。そしてその願力で我われは、この度人間に生まれてきた。だから、その教えにあって南無阿弥陀仏申したときに、はじめて私たちが本当に安心が得られ、人間としてこの世の中に生まれてきた本当の意味が明らかになる。そしてそれが南無阿弥陀仏の教えに遇う意味だということを前回お話ししました。そういう仏の本願のまことと、私の心がどこで触れるかということですが、私の心に溝があるわけです。まだ私がのんびりしている時には如来様には遇えないのです。そこのところを臨終における愚人のひとつの在り方というものを下品下生に説いてあります。『観無量寿経』の終わりに流通分(るずうぶん)というところがあります。そこでお経の本論が終わって、改めてお釈迦様が、

 

汝よくこの語を持(たも)て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。 『仏説観無量寿経』 聖典P122

 

ということを、わざわざ言っておられるのです。そこに善導大師は注目されます。観無量寿経で定善・散善を説いておられるけれども、本当にそのことを通して韋提希に知らせたかったのはここだと。「この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。」とは、つまり南無阿弥陀仏を持てとなりといわれる意味だと善導大師は気づきます。だからこの『観無量寿経』の中にはいろいろなことを説いてありますけれども、

 

上よりこのかた定散両門の益を説くといえども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり、と。 教行信証 聖典P350

 

というところにお釈迦様のお心があったのだと。だから、この観無量寿経で仰りたかったことは、お念仏に救われていけということを言いたかったのだと、そして、その釈尊のよりどころは『大無量寿経』の第十八願だと善導大師は仰っておられます。その人そのひとの因縁によりますから、聖のような生き方ができる人もいるでしょう、対照的に悪しか作くれなかった一生の人もいるでしょう、しかしそれは宿業の問題なのです。その人そのひとの遇縁(ぐうえん)です。善導大師は「遇縁の凡夫」だといっておられます。九品共に凡夫なのだと、だからどんな縁に遇うたかという問題なのです。だから善いご縁にあった人は、この世の中で善人でおれた。ところが本当に悪を犯すしかしょうがない縁にしかあえなかった人もいるわけです。しかし阿弥陀如来様からいえば、みな等しく救われてもらわなければならない凡夫なのです。そういうことをいいたいのが阿弥陀如来の本願なのです。それを具体的には、下品下生の念仏ということでお釈迦様は説いておられます。そのお釈迦様が立っておられるところはどこかといったら、『大無量寿経』の四十八願の中の第十八願に念仏往生の願が依りどころである。それをもっとも具体的にしたのが『観無量寿経』の下品下生です。それは、念仏申して救われていく愚人の問題のところに、その原点を善導大師は見ておられます。そういうことを一つの背景に持ちますと、みな同じようにたすかるという平等感情という言葉がありますが、特に今はヒューマニズムという言葉が使われますから、誰でも助けてもらえるのだと、それが如来様のありがたいところだと云うておりますけれども、やっぱりそれは観念です。本当に救われるということはどういうことなのかという時に、長い間七高僧みなご苦労くださったわけですから、それがどこで如来の本願と触れるのかは具体的には『観無量寿経』の下品下生の愚人の臨終における念仏というところで押さえてあります。それを親鸞聖人は「そくばくの業をもちける身」を救おうとなさった「本願のかたじけなさよ」といただかれ、「親鸞一人がためなりけり」というところで受け取っておられます。しかしそれは、私だけという意味ではないのです。そこに人生そのものが問われ、そこで念仏申されるという一人です。そういう問題があるということを申し上げたかったわけです。そいう意味で、

 

凡・聖逆謗、ひとしく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」

 

と、海というのは本願海です。衆水というのは我われ一人ひとりの宿業です。そういうことで「五乗斉入の益」という、すべての人びと(五乗)が平等に救われていく誓願一仏乗という、親鸞聖人の宣言になっているのであります。ここに帰するということです。あらゆる仏教は、阿弥陀如来の本願という仏法に帰するということを親鸞聖人は仰しゃっています。「誓願一仏乗」それが浄土真宗だと仰っておられます。

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