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​正信偈に聞く

 25-1 

​平成22年4月25

 今日は前回に続きまして、信心の利益ということを述べられておるところでございます。

 

摂取心光常照護 摂取の心光、常に照護したまう。

(すべてをおさめ取られる慈悲の光は、常に照らされている。)

巳能雖破無明闇 すでによく無明の闇を破すといえども、

(すでに無明の闇は破られてはいるけれども、)

貪愛瞋憎之雲霧 貪愛・瞋憎の雲霧、

(欲望と怒り憎む心が雲や霧となって、)

常覆真実信心天 常に真実信心の天に覆えり。

(常に真実(他力)の信心を上から覆っている。)

譬如日光覆雲霧 たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、

(たとえば、日光が雲や霧に覆われたとしても、)

雲霧之下明無闇 雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。

(雲や霧の下は、明るくして闇でないようなものである。)

 

 ここまでが、「心光常護の益」と言われるところでございます。「摂取心光常照護」(すべてをおさめ取られる慈悲の光は、常に照らされている)と、古田先生は訳をつけておられます。

 

⑮「摂取」 阿弥陀仏の大慈悲に摂め取られ捨て去られないこと。

⑯「心光」 阿弥陀仏の大慈悲心のはたらき。

 

と古田先生が注を付けておられます。

 ですから、「すべてを摂め取られる慈悲の光」、つまり摂取の慈悲の光。心光といいますと心と光という述語でつくられているわけですね、心の光と。ここは何とも言えないところですけれども、学者の方は心光というのは、色光との対比だというふうに言われます。色というのは現象という意味です。般若心経の中に「色即是空」という言葉があります。大般若経は六百巻あるのです。その心経ですから、一番中心を集めたお経という意味で「般若心経」と言っています。般若というのは、仏の覚りの智慧という意味です。般若というのは「パラジュニャー」というインドの言葉に漢字を当てておるわけです。「色即是空・空即是色」といってありますけれども、その時の色というのは現象という意味です。その現象というのを、私たちは実体的に捉えますが、それが我われの煩悩の知恵です。実体的に捉えられているものは何もないというのが空なんです。そんなものは何一つとしてない、無いものを有ると思って握ってしまっているわけです。だから、私たちはこの身体を実体的にとらえていますから生老病死に苦しむわけです。すべてのものは因縁によって生じ、因縁によって滅する、だから諸行無常というのです。何一つ止まるものはない、諸行無常の行という字が現象という意味なんです。漢字というのはいろいろな意味がありまして、我われが小学校で習った行というのは、行く・行うというふうに習いました。しかし、これは現象という意味です。諸々の現象というのは常なるものは何一つとしてない。皆因縁によって生滅する、どんどん移り変わっているわけです。生老病死という、生あるものは必ず死に帰す、盛んなるものは必ず衰える、生身を抱えておれば病は免れない。これは自然というものです。生まれたものは死に帰す、盛んなるものは衰える。これは人間でどうかなるものではありません。それは因縁によって生滅するものの在りのままの姿ですよ。しかし、お釈迦様は生老病死を四苦といわれるんです。四苦八苦というでしょう。その時の四苦は生老病死のことなんです。だから生老病死が私たちを苦しめておるのでなくて、生老病死に苦しむ私がおる。それは何かといったら執着だと。つまり、私たちは自分の身体を因縁生と気づかない、実体的なものと考えている。誰でも若くありたい、そして死を恐れる、そういう者はみな智慧がないからだと。執われだというのが仏教の教えでしょう。そういう意味で空という言葉を使ってあるわけです。空というのは何もないという意味ではないのです。つまり私たちの思っているかたちにおいて、本当は存在しないという意味です。私たちは実体観に執われておりますから、そういう意味でいうならば、一切はそんな存在でないということを言葉で空とあらわしてある、空しいという意味ではないのです。我われが考えているようなかたちで一切は存在しない。それじゃ何もないのかといったら空即是色と。太陽の光も、電気の光も現象としては見えている光、それを色光と。色の光に対して心光というのは、如来の慈悲の光。だから、我われの肉眼で見えるものではないのです。それを心光といってあるわけです。それは摂取といってあります。「阿弥陀仏の大慈悲に摂め取られて捨て去られないこと」と。摂取不捨と。つまり如来の大悲というのは、すべてのものを如来の光の中に摂め取って決して捨てない。だから摂取不捨でしょう。

 

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。

『歎異抄』 聖典P626

 

 十二光のところでもお話をしましたけれども、仏教で光といった時は闇を破るという意味があるわけです。光はただ光っているというだけでなくて、闇を破るはたらきという意味があります。闇は私たちすべてのものを実体視する。そして俺が俺がといっていく。そういうものは迷いだと知らせてくださるはたらきです。そういう意味で光に譬えてあるわけです。「すべてをおさめ取られる慈悲の光は、常に照らされている。」常に照らされているということは、私たちが光の外にいるということはあり得ないわけです。常に照らされているということは、光の中にいるということです。

 

常(じょう)― 不断常(ふだんじょう)・相続常(そうぞくじょう)

      

「常」ということは、不断常と相続常という意味があります。不断ということは絶えないという意味があるわけです。例えば太陽というのは常に照らしておるわけです、ですから私たちに昼や夜があるということは、地球が回ってますから昼と夜があるわけですが、常に太陽の光というのは絶えないわけです。相続といった場合は、例えばあの人は常に仏教に心を寄せて教えを大切にしておられる、平常(へいぜい)という時の常と同じです。いつも心がけておられる。いつもその人の思いが絶えないということでいう時は相続と。相続は続いておるわけです。ここで言われる常は不断常のことです。だから「摂取の心光、常に照らしたもう」と。私たちが忘れていようと、またそれに背を向けていようと、決して照らさないということはないのだと、だから常に照らし護る。護るということは、ご加護があるということを言います。そうすると私が災難に遭うところを遭わないで済んだと、そういうことを護られると普通言いますが、そういう意味ではないのです。仏教における利益というのは、何か病気すべきところを病気しないで済んだから神仏のお蔭だという言い方がありますけれども、そういう意味ではないのです。だから、私たちは常に煩悩振り回され、そして自分の都合のいい方に流れていくものを持っています。そういう事は迷いだと、そこに救いはないのだと、そういう私に念をかけ、信の世界に立ち直らせようとするはたらきが如来様のお慈悲です。それが常に私を摂さめ取って捨てられないという意味です。「摂取の心光、常に照らしたもう」と。だから、そういう光に遇うて私たちの迷いの心が翻される。迷いの心を破ってくださるということがあります。如来と私ということを考えます時にいろいろな言い方があります。有限と無限、如来と衆生と。

 前回『観無量寿経』の中の念仏のまことに衆生がどこで遇うかということを言うのに、『観無量寿経』の散善九品の中の下品下生という話をしました。つまり「不善造悪」、今まで何一つ善いことをしたことがない、悪いことしかできなかった人間、しかし、そういう人も悪を好んで善を嫌っておるのではないのです。やはり人間は善であろうとする。悪を行うことしかできない自分を深いところで悲しんでおる。しかし、悪をしないではおれなくて生きておる人もどこかで開き直る。そして世の中の善悪は相対的な善悪ですから、確かに悪い人もいますけれども、本当の善人というような者がこの世に存在するかという問題がある。そして悪しかできなかった人が死に際に苦しみはじめる。苦しみはじめるということは、人と比べて自分を考えておる時は、私も悪いのは悪いけれども、もっと悪いものがおる。そして俺がこうして悪いことをせずには生きておれんのは誰かのせいだとか、親の育て方が悪かったとか、世の中がの矛盾に満ちているからだとかいって、何か人のせいにしたり、自己弁護ばかりして生きているのです。それが間に合わない。自分の人生が終わろうとしている時に、そんなことは言っておられない。何か本当に自分の人生と自分が真向きになる、その時にはじめて悲鳴を上げるといいますか、たすけてくれと。そこのところに善知識が念仏を教えるという、そういう教えがあることを前回お話ししました。

 私たちが阿弥陀如来の本願のまこと、つまり摂取の光益の中に私たちはおるのでしょうけれども、そういうものを光にしない。私が光にしているのは自分の能力とか地位とか名誉とか経済力とか、そういうものを光にしている。だから、そんなもんは諸行無常でございますから、本当の光にはならない。その光が間に合わなくなった時に絶望したりする。中には自殺までする人が出てくる。何かそういうものを当てにしていくのではなくて、本当に私が如何ともしがたい我が身だということをどこまでも知らせて、我に依れと。南無阿弥陀仏と我に依れという仏のまことに私が気づき、そして念仏申すという、その一点です。それが非常に大事なことで、そこに有限と無限ということの意味があるわけです。

 何か如来様でなくていいのでないかと、ある人が「昔の人は非常に純粋だったのでしょうね。何か死んだら極楽に往くという話を聞くと、それが非常に大事なことのように言っておられた。ああいう人を見ると私などは羨ましいんです。私などはなまじっか知識やいらないものがあるから、なかなか素直にはなれません。」というような人が時々おられます。そういう人は口で羨ましいといいながら、本当はそういう人を馬鹿にしておる。だから、極端に言ったら、自分はそんなものは無くても生きていけるというようなものがどこかにあるんです。だから、本当に救われようのない我が身だという、つまり南無阿弥陀仏のまことに依るより他にすくわれようのない我が身だということが、私にいただけるということは、私の分別ではないんです。仏教では仏の智慧が智慧で、さとりの智慧が智慧で、私の知識ではどうしても分からないのです。しかし、私たちはその知恵をたよりにして生きていってるもんですから、如来の真実に依るというような事は、なかなか自分の問題としてはっきりしないことがあるわけでしょう。

正信偈 25ー2

​正信偈に聞く

 25-2 

​平成22年4月25日

 

人間の犯す罪と、人間であることの罪。  (金子大栄)

 

 人間の罪には二つある。人間の犯す罪とは、いろんな縁によって私たちは罪を犯していきます。だから、これは現実に現象として出て来た罪です。ところが人間の犯す罪の背景に人間であることの罪というものがある。何かそうしてしか生きられない、根本の無明です。人間は知恵があるわけですから、これが善い、これが悪いということは分かっている。分かっている心を超えて、何かそのものを動かすものがある。人間の犯す罪というのは、ある程度私たちは見通すことができます。そして気をつけたり、努力したりする対象になります。しかし、その背景に人間であることの罪ということになりますと、これは私たちが人間であることの罪を尽くすというような事は到底不可能です。そういう私の人間であることの罪を見て、包んで、その者を救おうとするものが摂取の心光なのです。人間の犯す罪は、ある程度人間の知恵で見通せますけれども、人間であることの罪というようなことは、これはどこまでも深いものがありますから本当は分かりません、その問題が宗教の問題でしょう。如来というような事を説かれる意味ですよ。宗教は人間であることの罪という問題が根本問題なのです。

 前回、宮城先生のものを読みましたけれども、私たちは犯した罪は見えている、しかし仏教というものは、犯すものが出てくる元、そうせずにはおれない、そうでしかありえない私というものを照らす。だから、私たちからいうならば五十年、七十年の問題ではないですね。人間であることの罪というようなことは、人間がこの世に出て来た時から始まっている、そういうものをずっと私たちは引きずっておる。だから前回そういう表現をしました。渇愛というのは執着のことで新訳です。アイラブユーの愛とは違います。仏教で愛といった場合は悪い方にいうのです。喉の乾いた者が塩水を飲むように、飲めば飲むほど喉が渇く。この渇はかわきという意味です。満足がない。それを無明と言ってあります。智慧の明るさがない、根本的な無知。実のごとく知見せず道理に暗いこと。無明と渇愛とを根本煩悩というと言ってあります。「すでによく無明の闇を破すといえども、」と。つまり如来の真実に遇ったわけです。

 

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。 『歎異抄』 聖典P626

 

南無阿弥陀仏と、そこにはじめて摂取不捨の利益に遇う。常に照らされておる我が身に気づかされる。その真実に気づくから無明の闇は破られているけれども、「貪愛瞋憎の雲霧・常に真実信心の天に覆えり」と。そして「欲望と怒り憎しむ心が雲や霧となって、常に真実(他力)の信心を上から覆っている。」と古田先生は書いておられます。

 

⑱「貪愛・とんあい」 自我にとって好ましく思われる対象に対して、飽くことなく貪り求める欲望。

 

 我われの欲望というのは貪欲なんですね。つまり限りがない。

 

⑲「瞋憎・しんぞう」 怒り憎む心。善心を害し、道理に背く結果となる心の作用。

三毒煩悩 貪欲(貪愛・渇愛)・瞋恚(瞋憎)・愚痴(邪見・無明)

 

 だから、私たちの貪りは、外へ外へと求めて行くわけですから、求めた時に私の思うようになれば順縁です。しかし、この世の中で常に思うようになるとは限りません、むしろ思うようにならんことの方が多いでしょう。逆縁に対しては瞋恚、順縁に対しては貪欲です。ご存知のように、仏教は煩悩を百八数えるわけです。そのうちの根本的な煩悩を三つ上げて、貪欲・瞋恚・愚痴を三毒の煩悩というわけです。貪・瞋・痴・慢・疑・邪見を根本煩悩といいます。煩悩は百八あるわけですけれども、三毒の煩悩が中心です。それに更に三つ含めて根本煩悩といいます。それを代表させて「貪愛瞋憎之雲霧」と根本煩悩を上げてあるわけです。慢というのは我慢と言うでしょう。道徳では我慢というのは善いことです。やっぱり皆さん我慢せにゃいかんですよ。そして我慢しない人生なんてありません。仏教では慢の中に我慢というのがありますけれども、我慢というのは俺がするんです。だから、私が我慢しておるから家が丸くいっているということはよく聞く話です。だから慢は「たかぶる」驕慢です。どいつもこいつもろくなものはおらん、俺より偉いものはおらんというのが「驕」だそうです。慢というのは人と比べて、あの人よりこっちが上だという、相対的に比べるのが「慢」だそうです。皆両方ともありますね。「疑」というのは疑うという字ですが、猶予という意味です。疑というのは、ただ疑うということではなくて、猶予という意味があるわけです。ああ思ったり、こう思ったりして決まらないという意味なんです。だから、如来の本願を信じないというでしょう。そして如来の本願を疑うというでしょう、あれは決まらないという意味なんです。聞けばなるほどと思ったり、本を読んだりしたら、本当だと思ったりするけれども、ただ念仏してという時の唯(ただ)は決定でしょう。法然上人が「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と教えてくださった。だから、念仏して地獄に行こうと極楽に往こうと、私はそんなことは関係ない。『歎異抄』第二章に親鸞聖人はそうおっしゃっています。こういうのは迷いがないのです。それに対して、決まらないという意味が疑なのです。私はそんなものは信じられないという意味ではないのです。猶予といいます。「邪見」というのは、正見に対する言葉です。つまり因縁を無視する。正見は因縁に従う。見は見解です、思想です。だから邪見というのは、邪(よこしま)な見解という意味です。

 貪欲というのは、順境に対して「自我にとって好ましいと思われる対象に対して」、つまり順境に対して「飽くことなく貪り求める欲望」です。徹底して追求していく、これはもちろん物欲だけではありません。名誉欲もそうですし愛欲もそうです。そういうものも皆含めてあります。食欲・性欲・睡眠欲まで他の動物も同じです。ところが動物には財欲も名誉欲もないのです。人間はこの五欲を完全に持っているわけです。例えば食べることでも、動物は食べるものが決まってますし、腹いっぱいになったらもう食べません。ところが人間の場合は、これに貪がつき、さらに財欲まで重なってきます。

 ある小説の中で、「戦後、自分が子供の時です、レストランに行って、そんなに値段が高く旨いものを食べられなかった。しかし親として私に旨いものを食べさせようと選んで食べさせてくれた。そうしたら向こうのテーブルで食べている人を見たら、いかにも金持ちのような人が本当にびっくりするようなものを食べておった。だから私も大人になったらあんなものを食べたいと思ったわけです。そして一生懸命苦労して、自分もそれだけの財力を持ったもんだから、今度は子供を連れていって「食べろ・食べろ」と勧めたら、子供はつまらん顔をしていた。それを見た時に寂しかった」と。何かそういう小説を読んだことがあります。生活のレベルが上がっているわけです。だから子供に「食べろ・食べろ」といっても、子供たちは親が勧めた御馳走は普通になっているものだから、大して喜ばなかったという話です。面白いですね。私も戦前から戦後に生きた人間ですから、何か面白い気がする。だから食欲というのは、単なる食べるということだけではないのです。そこに財とか名誉というようなものが包んであるわけです。だから人間のただ食べているということだって複雑なんです。そして限りがない。性欲にいたっては人間の場合は大変です。犬や猫は時期が決まっているでしょう。ただ子供を残すというだけの営みですから、人間は年中いいわけでしょう。この性欲に愛欲というものが絡んできますから、人間の性欲は非常に面倒なわけです。そして、どこまでも貪で限りがない。だから、そういうものに人間の方が引きずり回されて、そのことに気づかない。こういうのが煩悩というものは取り上げていきます時に大事でございます。だから、いつの間にかその深い世界に落ち込んでいく在り方に摂取の心光は、常に真実の智慧を与えようとしてはたらいておってくださる。だから、私がただ反省するということでない、私は常に反省しながら、考えながらも落ちていく。そういうものが人間の犯す罪、そのもとに人間であることの罪があるわけです。しかし、人間の犯す罪はなくなりません。何かそういうことが生きている証拠だとか、そしてまた進歩とか発展の証拠のようになってきておるわけですから、非常に人間の在り方というのは無明です。だから、そこに常にはたらいて、そして無明を無明と知らせてくださる、そういうものの中に私たちは生きている。「常に真実信心の天を覆う」と。私たちの貪愛瞋憎の雲霧は天を覆うと。つまり、如来の大悲に気づかされても、常にそういうものがはたらいている。そこに、人間が単なる一代、二代で出来たもので生きていないわけです。非常に深いもので生きている。だからこそ如来の心光というものは、常に私を見捨てることなく私にはたらいておってくださる。「摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。」と、こういうことを言っておられます。何かそこに非常に信仰生活というものの複雑さがあります。

 

譬如日光覆雲霧 たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、

(たとえば、日光が雲や霧に覆われたとしても、)

雲霧之下明無闇 雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。

(雲や霧の下は、明るくして闇でないようなものである。)

 

「日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。」と。常に私たちは照らされて、常に私たちが立ち還らせていただく。たとえ私がどんな心が出てきておっても南無阿弥陀仏と呼びかけられている。つまり如来の真実は、常に私たちにはたらきかけておってくださる。だから、それによって私が浄土へ向かって歩みが途絶えない。そういうことを具体的にしてあるのが、善導大師の水火二河の譬えなんです。南に火の河、北に水の河があって、その間に四・五寸の白い道がある。東から西に向かって歩む旅人がいる。そして河岸に立つ旅人の信仰を遮る群賊悪獣が後ろから迫ってくる。しかし、このたった四・五寸の白い道は、火と水が常にその道を洗っておる。こういうところに立ち止まってしまうんです。立ち止まった状態を三定死といっています。止まっていても後ろから群賊悪獣が迫ってくる。だからいよいよ帰ることができない。止まっておっても来るだろう、前に行けば火と水によって焼かれたり流されたりするだろう。三定死は行くも死、帰るも死、止まるも死という意味なんです。そこで旅人が非常に自分の人生というものを恐れて躊躇していく。こういう状態をいっているんです。

 

「すなわち自ら思念すらく、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし」と。  教行信証 聖典P219~220

 

その時東の方から、

 

「東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」と。」

 

そして、

 

「また西の岸の上に人ありて喚うて言わく、「汝一心に正念にして直ちに来れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と。」

 

 行けという声と、来いという声に励まされるということが一つあります。そして「すでにこの道あり」ということを言っています。これは非常に大事な言葉です。とにかく狭い道で水火の波によって侵されているけれども、道があるということはそこを通っていった人があるに違いない。行った人がおらねば道にはならないわけです。どんなけもの道でも獣が通れば道になるわけですから、だから「すでにこの道あり」といっています。これは大事な言葉です。だから決心して躊躇しないでこの道を行くんです。そして向こうに着くわけです。

 

正信偈 25-3

​正信偈に聞く

 25-3 

​平成22年4月25日

 

「この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、」

 

 河の幅は百歩と書いてあります。親鸞聖人は「人寿百歳に譬う」といっておられます。人間の寿命です。水というのは人間の貪欲、火というのは人間の瞋恚、怒り腹立ちです。貪欲と瞋恚です。だから今までただ生きていた時は、あまりそういうことが問題にならなかった。この旅人が西に行こうと思い立った途端に、たちまちにして目の前に河が自分の進路を妨げる。だから西に行こうと思わなかった人には見えないんです。西に行こうと思い立った時に、そこに見えてきたものが何かといったら、それを妨げるものとして自分の貪欲と瞋恚、そして今度は後ろから群賊悪獣が攻めてくるというんですけれども、群賊悪獣はその河を渡るなかれと、必ず渡れば火の中水の中に落ちるだろう。だから我われはあなたを害せようと迫っているのではないのだと言うんです。それを善導大師は悪友だと言っておられます。道を求めさせまいとする悪友だと。そうすると私たちの人生は悪友ばっかりです。だからこの人生に救いはないと。何か本当に真実なる道を求めて行こうとした途端に、今まで善い人だと思っていたのが悪友になる。自分の中にある煩悩が大問題になってくるわけです。そこに河端は狭いけれども、どちらも火は激しく燃え盛り、水は怒涛盛んに逆巻いている。しかもどちらも深いと書いてあります。ですからそこで躊躇して立ち竦む。

 その時に「「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。」と。善導大師は仁者(きみ)ただ決定して道を尋ねていけというのは、釈迦の教言だと言っておられます。お釈迦様はおられないけれども教えが残っている。だから釈迦の教言です。釈迦の発遣です。西の岸から弥陀の召喚といっておられます。だから、お釈迦様は私に来いとは言わないわけです。行けと言うんです。直ちに来たれというのは如来様だけなんです。これは非常に大事なんです。親鸞聖人が法然上人にお会いなされたときに、法然上人は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と親鸞聖人におっしゃったと。私について来いといわないで、ただ念仏して弥陀にたすけられよとおっしった。やっぱり法然上人の在り方がお釈迦様の在り方なんですね。水火二河の譬えで、お釈迦様は行けとおっしゃる。来いというのは阿弥陀さんだけなんです。だから釈迦の発遣と弥陀の召喚に励まされて「一分、二分」といっています、歩んでいく。そして向こうの岸に着く、向こうはお浄土、こちらは穢土、これが譬えです。私たちが今教えに遇って求道生活をはじめるということは、正しく白道を歩み始めるという意味があるわけです。その時に行けという声と来いという声を聞くということが一つありますけれども、それを常に火と水が脅かす。しかし、一心に行けという声と、来いという声に励まされて向こうに行くわけです。そしてお浄土にいくことができたということが、水火二河の譬えの中で善導大師が言おうとなさっておられることです。私たちの人生をそのように譬えられるわけです。

 私たちの人生というのは、どんな心でも出てくるわけです。貪愛瞋憎の雲霧が出てくるわけです。しかしそれを貫いて、それを超えて常に私たちの上にはたらいておる。それが摂取の心光なんです。摂め取って捨てないという、必ず浄土に生れさせて、私たちを涅槃の世界に至らせようという願いです。そういうことをここでは「摂取不捨の心光」というかたちで『正信偈』には述べられております。私たちの人生というものは、いつもそういうものに支えられているのでしょうけれども、

 

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

極重の悪人は、ただ仏を称すべし。我またこの摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲ものうきことなくて、常に我をてらしたもう、といえり。

 

 そこに摂取という言葉を使ってあります。だから、そういう意味で言いますならば、私たちの宗教生活というのは、常に危機を持っておるということです。何かあることを境にして、ずっと歩んでいくというようなものではないのです。分別起と倶生起というものが書いてありましたけれども、何か私たちの中にはたらいておる煩悩というのは、非常に厄介なわけです。親鸞聖人が三願転入ということをおっしゃる。十九願から二十願、二十願から十八願へということを、親鸞聖人は化身土の中でおっしゃっておるのですけれども、その時に二十願から十八願へというけれども、二十願というのは一生涯の問題だろうということをどの先生もおっしゃる。つまり分別起の煩悩の問題は片付いたが倶生起の問題というのがあって、それは私たちがどんなに如来様の真実に目覚めても、何か次から次に問題が出てくる。それは一生涯の問題だと。若い時に出てくる問題と、歳を取って出てくる問題は違うわけです。だからそれは、一つひとつ乗り越え、乗り越え行かねばならないわけです。しかし乗り越え、乗り越えしていくんだけれども、闇の中を乗り越えていくのではないのです。光が向こうにあって、光を求めて行くのではなくて、私たちは無明の闇は破れたのです。破れたけれども、常に真実信心の天を覆うような煩悩ははたらくわけです。しかし、はたらくけれども煩悩に私たちが根本的に振り回されるということはないわけです。常に呼び覚まされていくということがあるわけです。そして私たちは、やがて命終わるときに浄土に生まれて仏になる。つまり必至滅度、必ず滅度に至る。滅度は浄土ですから、常に私たちは守られておる、そういう信心なんです。そういうことを、ここでは申されておるのだろうと思います。何か、私たちの具体的な実生活というものを、非常に誤魔化さないで、そして一足飛びしないで押さえてあるということ。だから私たちは一生涯、煩悩具足の凡夫であるということは免れないのです。信心もらったら仏様に近づいた、そんな話ではないのです。私たちは命終わるまで煩悩具足の凡夫なのです、だけど単なる凡夫ではないのです。人間に救いはないのだということに目が覚めている凡夫です。だから何も分からないでウロウロしている凡夫ではないのです。仏法がなければ本人は一生懸命やっているようですけども、実は人間とは何か、人生とは何かというような根本問題は何一つ分かってないのです。そういうものは分かっているけども、しかし具体的な問題になってくると、例えば家族が病気になった時にも、これが人生だと片付かないでしょう。そうすると、どうかしてやりたいとか思います。それが煩悩であることは間違いありません。私などは膝が痛い、そうすると愚痴になります。だんだん良くなっておるのかと思うと、だんだん悪くなってますから、そうすると何か愚痴になります。私は半月前に白内障の手術をしました。左の眼は以前手術をしていましたけれども、右な方がだんだん見えにくくなってきて、夜などは片目運転するようになりましたから、これは危ないと思って手術をしました。よく見えるようになりました。これは嬉しいです。しかし、5,6年前に手術をした眼と比べてみましたら、先にした眼に霞がかかって来ています。今まで以前手術した眼がよく見えると思っていましたけれども、少し目が霞んできています。そこで手術して、もう一度見えるようにしてもらうかと思う心がはたらくのです。しかし歳を考えますよ。お前いくつになっているのかと思いますけれども、人間の欲は切りがないです。

 細川巌さんは福岡教育大学の教授だった方です。住岡夜晃という偉いお坊さんに会ったのがご縁で、九州大学の学生のころから熱心な念仏行者になられました。その細川先生は生前から念仏の道場を造っておられるのです。先生が亡くなられた後、その道場に私は呼ばれて行きました。一泊二日の研修会でした。細川先生が福岡教育大学の先生だったものですから、出席者の方々は、ほとんど大学の時の学生OBでした。そういう人たちが沢山来てくださって、一晩泊りの研修会でした。夜のお勤めがすんだ後に感話をされるんです。その時に、あるご婦人が白内障の手術をしたお話をされました。だんだん目が悪くなって、しかも両目が見えにくくなってきた。誰から聞いたか分からんけれど、悪くなってから手術をした方がいいのだということを聞いたものですから、悪くなるのを待っていたけれども、夕方になると蹴躓くようになったもんだから、これはいかんと思って病院に行ったそうです。そうしたら「こんなに悪くなるまでよく辛抱したね」といわれて、「悪くなるまで待って手術をした方がいいと聞いたので待ってました」と。そうしたら「誰がそんなことを言った」とお医者さんから笑われたそうです。結局、両眼手術してもらうということで入院して、手術をしてもらったらよく見えるようになったそうです。退院して家に帰って自分の顔を見たら、こんなに歳を取っていたのかと思ってショックを受けたという話をされました。自分は今までよく見えていなかったものですから、そんなにシワがないと思っていたら、よく見える眼で見たらシワだらけの自分になっていてショックを受けたそうです。こんなことなら手術しない方がよかったと言いなさった。人間というのは面白いですね。眼が見えるよりもシワになっている方にショックを受けて、これなら手術しなければよかったと思ったと、貪欲ですね。女の人はそうでしょう。やっぱり自分が歳を取ったと急に気づかされたら、2・3日気分がすぐれなかったそうです。そうしたら、どこかで細川先生が「お前は今まで仏法をどこで聞いておったか」と言ってくださったような気がしたと、その時にはっとして心が明るくなりましたという感話でした。なかなかいい感話でしたけれども、私が白内障の手術をした時にそのことを思い出した。あの時のご婦人があんなことを言ったな・・だから切りがない。煩悩は自分で気づかないかたちで動くのです。しかし「お前は今まで仏法をどこで聞いておったか」と言われたら、気づくようなものはあるわけです。だから、本当にありがとうございました、本当に喜ばせてもらいましたと言えたんでしょう。私たちは一生涯煩悩はなくなりません、しかし煩悩と知らせてくださるものが摂取の心光です。具体的には南無阿弥陀仏です。そこが一遍上人の信仰と違うところです。一遍上人は恍惚感があります。

 

となうれば我も仏もなかりけり、ただ念仏の声のみぞして

 

自分の尊敬している人の前で、自分の心境を一遍上人が言ったというんです。そうしたら、「まだだ」と言われた。そこでまた工夫して

 

となうれば我も仏もなかりけり南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏

 

 こういうことで自分の尊敬する人からほめてもらったということが伝えられておるわけです。だから、我と仏が一つになるという一遍上人の世界です。そうしますと比叡山の山の念仏に近いわけです。親鸞聖人の言われる世界はちょっと違うわけです。凡夫であることがいよいよ深く知らされるわけです。だから命終わるまで凡夫なのです。だから仏と自分は一つではないわけです。どこまでも凡夫だということを知らせるのがお念仏です。機法一体という言い方が蓮如上人にはあるのですが、機法一体であって機法合体でないという言い方をしますが、西山派の教えを蓮如上人がもらってきて一つの表現をなさるのです。機法一体ということは、どこまでも如来は如来、私は私なのです。その私が、私を知らない私であることをどこまでも知らせるものが如来なのです。救われようのない我が身を我が身と知らせてもらう。知らせるものと知らされたものが一つになる。知らされた凡夫を離れて、知らせる如来はない。そういうことを親鸞聖人はおっしゃっておられます。親鸞聖人の信心の相がここに出ていることが大事です。そこが一遍上人の時宗と違うわけです。一遍上人は、大宰府で法然上人の弟子から念仏を教えてもらった人ですけれども、この人は念仏をみなに勧めて一生旅をしていった人です。捨て聖といいますか、だからこの方には書物が残っていないのです。だからある文学者の本を読みますと、一遍上人は徹底していると、親鸞はたすからなかったのではないかと言っています。親鸞聖人は一生涯煩悩がなくなっていないのですから、たすかっていなかったのではないか。しかし、一遍上人の場合は煩悩の凡夫と仏が一体となって、如来によって浄化されるといいますか、純化されるといいますか、そういうものが非常にはっきりしている。親鸞聖人は一生涯煩悩はなくなっておらんのです。だから親鸞は救われておらんのではないかという文学者がいます。違うのです。そこが親鸞聖人の特徴です。それが善導大師、法然上人の教えを正確に受け取った親鸞聖人の在り方というものがあると思います。

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