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​正信偈に聞く

 27-1 

​平成22年8月27

   今日は信心の利益の第5番目「教主嘆誉(きょうしゅたんよ)の益」に入ります。

「教主」というのはお釈迦様です。「嘆ずる」ということは、声を出して誉めるという意味でございます。

 

一切善悪凡夫人 一切善悪の凡夫人、

(一切の善や悪の愚かな人びとも、)

聞信如来弘誓願 如来の弘誓願を聞信すれば、

(阿弥陀如来の広大な誓願のことを聞いて信ずれば、)

仏言広大勝解者 仏、広大勝解の者と言えり。

(釈迦仏は、広大なすぐれた理解をもつ人と言われるのである。)

是人名分陀利華 この人を分陀利華と名づく。

(このような人を白い蓮華と呼ぶのである。)

 

27「仏」 釈迦牟尼仏(釈尊)

 

この「仏」というのはお釈迦様のことです。だからお釈迦様が弘誓を聞信した人を広大勝解のものと言われ、またこの人を分陀利華と名づけられる。私たちは凡夫とよく言いますが、古田先生は「凡夫・ぼんぶ」というのは「普通の人」と書いておられます。ただ普通の人というのではなくて「聖者に対する語」と。だから凡夫でない人は聖者なのです。聖者か凡夫かなのです。「凡夫」の凡はただびとという意味です。だから普通の人、それに対して真理に目覚めておられる人を「聖者」というわけですから、そうでないものが凡夫でございます。そして「愚かで汚れた人」と書いておられます。そういうことも世間一般でいう、頭のいい人に対して、そうでない人を愚かな人と言いますが、そういう意味ではないのです。つまり仏法によって真実の智慧を得た人、それは凡夫であっても、聖者に劣らない人になっていくわけです。

だからそういうことが分からない、凡夫であっても善人もおるわけですから、能力もあり社会的地位や名誉もあり、誰からも尊敬されておるような人であっても、もし如来の誓願を聞信するということがないならば、その一点を、その人が持っていないならば、それは凡夫であると、こういう意味です。その凡夫が「如来の弘誓願を聞信すれば」となるわけです。ですから愚というのは、真実の智慧を持たないという意味です。

汚れた人という意味は我執煩悩に汚されている、だから真実の智慧を持つことがなければ、所詮その人の一生は我執煩悩を一歩も出ないわけです。しかも出ないことに気づかないわけです。常識だけでこの世の中を見ていくわけです。常識というのは、如来の真実の智慧から言えば狭い、そして低い、そしてどこまで行っても救いのない在り方だということが分からないわけです。それで凡夫というわけですから、凡夫の者も愚かで汚れた人も、そこに阿弥陀如来の広大な誓願のことを聞いて信ずればとなっています。「如来」は阿弥陀如来です。「弘誓願」の弘というのは「ひろい」という意味です。誓願といった場合と本願といった場合は幾分意味が違うのです。本願ということを、ここでは誓願といってあるのですけれども、誓いという意味がこの言葉にはあるわけです。単なる願いではなくて誓いだと。だから広大な誓いと願いと二つの意味が書いてあります。誓いというのは約束ということです。本願というのは四十八願ですから、阿弥陀仏が法蔵菩薩であられた時に建てられた四十八の本願と書いてあります。ところが本願は四十八願すべて、どの願も最初に「設我得仏」とあり、そして願文がありまして、最後は必ず「不取正覚」となっております。

ここに古田先生は「阿弥陀仏が法蔵菩薩であられたとき」と書いてありますように、ご修行中のお名前は法蔵菩薩です。法蔵菩薩が願も行も成就して阿弥陀仏になられる。その法蔵菩薩が四十八願を建てられたわけです。第一願は「無三悪趣の願・むさんまくしゅのがん」と言われております。

 

たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。

 

私の国を造りましても、その国に地獄・餓鬼・畜生があるならば、私は正覚をとらないと。私が仏になったということは国を持ったということです。それが浄土です。阿弥陀仏の国を浄土というのですから、私が仏になって、私が浄土を建立する。しかし、その浄土の中に、もしも三悪趣があるならば、私は正覚を取らないというわけですから、要するに私は仏とはいえません。別の言い方をすれば、必ずそうします。つまり、皆を私の国に生まれさせて、そして仏にしたい。そのための浄土を法蔵菩薩は、すべてのもの「善悪の凡夫人」のために浄土を建立するわけです。

 あなたがたが修行し、学問をして来なさいというのではないのです。そういうことの出来ない者のために、阿弥陀仏は超世の本願を建てられたのです。世を超えたということは、そんなことは考えられないという意味です。どんなものでも、その国に生まれるならば仏になれる、そういう国を私は建立する。しかし、そういう国を造ってもだれも生まれられなかったならば、何もならないわけですから、誰でも生まれられる道を法蔵菩薩は考えられたわけです。そこで、

 

誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、

『歎異抄』 聖典P630

 

となえやすいということは、誰でも南無阿弥陀仏と言える。たもちやすいということは、道で歩いていようと、仕事をしておろうと、夜の目覚めにでも、南無阿弥陀仏は言えるわけです。だから、我が名を称えんものを、我が国に迎えとろうと本願をおこされたわけです。だからすべてのものを平等にという意味が、具体的に修行をしたり学問したりして、高い心境を開くことができる人もおるだろう。しかし、ある意味でいったら箸にも棒にもかからないような者もおるだろう。そういう者も包んで、すべてのものが仏になれる道を誓われたわけです。だから、私の国にもしも三悪趣があるならば、私は仏になったとはいえませんし、私の国は本当の浄土とはいえませんと言われるわけです。第二願は「不更悪趣の願・ふきょうあくしゅのがん」です。

 

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿終わりての後、また三悪趣に更(かえ)らば、正覚を取らじ。

 

三悪道が一度無くなってもまた出来るようならば、仏になりませんと誓われるのです。この娑婆というところは、そういうふうにはなっていません。一度無くなってもそのうちにまた出てきます。そういう国であるならば、私の浄土は浄土とはいえません。だから、はじめは三悪趣の無い国を造りたいと。もしそれが出来ないならば、私は仏になりません。こういうことを衆生に向かって誓われるわけでしょう。私たちは如来様と約束した覚えはないのですが、如来様の方が衆生に向かって誓われるわけです。必ずそうさせますと。そういうことが本願にはあるわけです。だから単なる願いではないのです、すべての人間を私の国に生まれさせて仏にしたいというだけならば願いでしょう。しかし、必ずそうさせます。そうならなかったならば、私は仏になりませんと仏は誓われているのです。だから誓願という。誓いという言葉が使われるわけです。

「聞信如来弘誓願」「弘」というのはすべてのものを包んでおる。普遍性を表すわけです。だから弘誓願と、このようにいわれておるわけです。「広大なる誓いと願い」です。「阿弥陀仏が法蔵菩薩であられた時に建てられた四十八願の本願を聞信すれば」です。この聞信というのは非常に大事なのです。阿弥陀仏の国に生まれるについて、そのおいわれを聞く。聞くということを、ただ耳で聞くということではなくて、「仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし」と。それが聞くということだと親鸞聖人は言われております。生起は起こりです。そして、それがどういういわれになってきたか、根本であり結果ですね。だからこれはすべて如来様のご本願のおいわれです。誰のために建てられたのか、そしてまたどういう手立てが尽くされたのか、そしてそれが私たちに届くためにどのようなご苦労があったのか。生起本末を聞きてと。その如来様の本願のおいわれを聞いて疑心あることなし。疑いの心がない、疑いが晴れたということです。

私たちは何をしにこの世に生まれてきたのか、その時に南無阿弥陀仏のおいわれを聞きに生まれて来たのだと、こういう言い方があります。もしも、これが私たちにいただけないまま、ただ人生を生きて終わるならば、我執煩悩に一生を苦しめられてしまう。その私たちを哀れで悲しい姿を阿弥陀如来がご覧になって、そこにそのものをして真に真実の智慧を、まことを与えようとして如来様がご本願をお建てになった。それは他ならない愚かな私たちのためのご本願である、こういう意味です。ですから、親鸞聖人が『歎異抄』の最後のところに「つねのおおせ」と言っておられます。つねのおおせですから、何か事あるごとに親鸞聖人はおっしゃったのでしょう。何か呟くようにおっしゃったのかもしれません。

正信偈 27ー2

​正信偈に聞く

 27-2 

​平成22年8月27日

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」 『歎異抄』 聖典P640

 

「そくばく」というのは数限りないという意味です。「そくばくの業をもちける身」、そくばくの業をもっている私を救おうと、「おぼしめしたちける」です。阿弥陀如来はご本願をお建て下さったことであったと。曽我先生の本を読んでおりますと、思い立ちけると、「そくばくの業をもちける身をたすけんと」思い立ってくださった、「おぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」、私たちのために思い立ってくださった。それをあらわすのが本尊です。真宗の仏様は立っておられます。座っておられる仏様の姿は、法界の真理を我が身に体得されて、ひとつになっておられる姿です。無我とか空と禅宗の人はいわれるでしょう、智慧の姿です。それが座しておられる姿です。

 真宗の仏様は、座しておられた仏様が立ち上がっておられる姿です。そしてただ立っておられるというのではない、前に少し傾いておられるのです。善導大師は阿弥陀仏の立っておられる姿を「立撮即行・りっさつそくぎょう」と言っておられます。座っておられないで、「撮」という字は「かっさらう」という意味だそうです。ですから写真を撮ることを撮影するというでしょう。昔は写真を撮られると自分の姿が抜かれると思っていたそうです。例えば三人並んで写真を撮ってもらったら真ん中の人は命を取られるとか、そこで写真を撮られることを畏れたということがあったということを本で読みます。撮影というのは影をかっさらうという意味だそうです。だから自分の影が写っているわけですから不思議なことです。宇宙の真理に安住されていた仏様が何を見られたかといったら、ただ自分の我執や煩悩に日夜苦しめられる衆生が見えた。その衆生の苦しみ悲しみが仏の悲しみになった。そうしたら座っておられない、ですから立ち上がられた。そして穢土に苦しんでおる者を、かっさらって浄土に生れさせようという、そういうひとつの行というのは、はたらきです。だから立っておられる。仏様の姿は立撮即行と善導大師はいわれます。

 だから真宗の仏様は立っておられるのです。しかもただ立っておられるのではなくて、少し前に傾いて立っておられるということは、足を一歩前に踏み出そうとしておられる姿だそうです。絵像では分かりませんけれども、お木像でしたら少し前に傾いておられる姿がわかります。そういうところに単なる願ではないのです。私たちに対してのはたらきをあらわすところに誓願という意味があります。それが誰のためでもない私のためである。どういう私か。

これは一つの例ですけれども、先月認知症になられたお母さんの介護をされたある婦人の話をしました。その方は自分を生んで育ててくれたお母さんのご恩ということは、もちろんよくわかっているわけです。皆わかっているけれども、お母さんが認知症になられて、その介護が長引くと、だんだん自分が苦しくなってくると、どうしても愚痴が出るようになる。やっぱり自分より他に可愛いものはいないわけです。そうしてお母さんが亡くなられた時にホッとする、自分が口でいうわけではないけれども、「やれやれ」というところになる。何かそういう姿を、私たち人間は持っておる。

だから、もしもそういうことが話題になって、人さまから「それはできんばい」と言われたら、「あんたもそうなってごらん、どう思うか。」といってすぐ開き直ったり、他人の性にしたりするわけですけれども、そうでしかありえない私と言えないのです。それだけの力と智慧がないわけです。そうでしかあり得ない衆生の罪を、如来が自分の問題として衆生の悲しみを背負われたということです。衆生が自分の救われようのない姿と気づけない。気づけなければ本当の人間に生まれた喜びも、そしてまた人と人との真実の出遇いも成り立たないわけです。結局は生涯を空過してお終わってしまうわけです。

 

人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当たりて苦楽の地に至り赴く。身、自らこれを当くるに、有(たれ)も代(かわ)わる者なし。  『仏説無量寿経』 聖典P60

 

 

 これは死んでいく人だけが一人ではないのです。みんな一人なのです。だから、そこからいろいろな問題が出てきておるのです。そのことが分からないのです、そういうことが智慧が無いという意味なのです。世間的な知恵の話ではないのです。だから如来様から観られた私の姿、それが凡夫です。そのことに気づかれた如来が誓いを建てられた。それは浄土に生まれさせて、真実の智慧を与えようという、そういう意味です。そういうところに如来の弘誓願があるわけです。そのことを聞信する。「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と。蓮如上人は疑心あることなしを、疑いがはれるという言い方をされます。ちょっと聞いて分かる話ではない。しかしそれが「仏願の生起本末を聞きて」、本当の自分に遇うということでしょう。私の見ている私でなくて、如来によって見通され、如来によって大悲された私です。それが本当の私です。そういうものに私が初めて気づかせていただく、それが聞です。そして聞が信です。聞即信といわれます。疑心あることなし、疑いがない、それが信ということです。そうすると、「仏は広大勝解の者といえり」と書いてあります。古田先生は「釈迦仏は、広大なすぐれた理解をもつ人と言わるのである」と書いておられます。そしてまた、この人を分陀利華と名づけるのであると。

 

27「仏」 釈迦牟尼仏(釈尊)

28「広大勝解の者」 広大な真実について、すぐれた理解をもつ人

29「分陀利華」 サンスクリット語のプンダリーケの音写。白蓮華(びゃくれんげ)白い蓮華は、古くインドで、最も気高く、汚れが一切ない華とされてきた。ここでは、如来の弘誓の願を聞信する人をさしている。

《参考》

1,『維摩経・ゆいまきょう』「仏道品」

「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)に、いまし蓮華を生ず。」

『教行信証』 聖典P288

 

これは、維摩経というお経があるのです。大乗経典としては特異な経典として、また有名な経典です。聖徳太子の著に「三経義疏・さんぎょうぎそ」というのがありますが、その中に維摩経が入っています。『法華経・維摩経・勝曼経』(ほけきょう・ゆいまきょう・しょうまんぎょう)です。維摩居士(ゆいまこじ)といいまして、居士というのは在家の人という意味です。維摩というのは人の名前です。このお経は極端にいいますと、大乗と小乗ということを強調しようとする意味があるわけです。お釈迦様のお弟子は小乗の仏弟子です。阿羅漢(あらかん)といいますが、阿羅漢が単なる在家の信者である維摩にやり込められるわけです。仏弟子である舎利弗(しゃりほつ)などは、お釈迦様の教えには非常に忠実なのです。しかしそれは言葉に執われ、姿に執われておる。だから本当のお釈迦様の精神が分かっていないということを維摩が指摘するのです。そういうことが書かれたお経です。その維摩経の中に書かれている「仏道品」のところを、親鸞聖人がここに引いておられるわけです。

 蓮華というのは、高原のような見晴らしがよくて、皆がわざわざ観光にでも行くようなところには咲かない。卑湿というのは土地が低くて湿気のある所、しかも汚泥ですから泥沼です。そこに蓮華が咲く。これは一つの人間の悪業煩悩の譬えでしょう。そういう人間の我執煩悩を大地にして、しかもそれに汚されない。卑湿の汚泥の中から、それに汚されないで美しい華が咲いている。それが蓮華です。善悪の凡夫人が、仏願の生起本末に疑いが晴れる。疑いが晴れるということは、阿弥陀如来のお覚りの心が疑いなく私たちの心に届いたということです。私の持っているものに仏教の教えがくっついてプラスしたということではないのです。むしろ私の思いが破られる。それが帰命ということでしょう。そして仏の心が私の心になるという意味でございますから、本来卑湿の汚泥である私の心の中に本願のまことがとどいた。それが、疑いが晴れるということです。それが念仏申すという意味になるわけです。念仏申させて浄土に生れさせようという仏の大悲が念仏になっている。念仏というのは如来の大悲を表す言葉ですから、それをいただく。疑いが晴れるということは頂くということです。そして、古田先生は、

 

2、『法華経』 『妙法蓮華経』 サッダルマ・ブンダリーカ・スートラ

 

法華経と言っていますが、正式には「妙法蓮華経・みょうほうれんげきょう」です。そして古田先生は、蓮華のことを先にあげておられます。

 

3、蓮華 ウトパラ 優鉢羅華(うたつらけ)青蓮華(しょうれんげ)

     タムダ  拘勿頭勿華(くもつづけ)黄蓮華(おうれんげ)

     パドマ  鉢頭摩華(はづまけ)紅蓮華(こうれんげ)

     プンダリーカ 分陀利華(ふんだりけ)白蓮華(びゃくれんげ)

 

 このように広大勝解の者と言い、分陀利華と名づけるのだとお釈迦様は褒めておられる。こういうように、親鸞聖人が正信偈の中で述べていらっしゃるわけです。ですから広大勝解とか分陀利華といいますけれども、特別な人になったような錯覚をもちますが、そうではないのです。普通の人間が、普通の人間というのは、常に我執煩悩に振り回されている人です。その者のためにこそ仏願が建った。如来の本願が建ち、私たちに我が名を称え我が国に生まれんと欲(おも)へと呼びかけてくださった。呼びかけられたのは外でもない私自身である。私自身のために如来は本願をお建て下さった。その私自身という私は、今まで私が俺だといっている私が、いかに救われようのない私であったか。そのことを全く気づかずに、そしていつも自是他非、自分は是、向こうは非。いつも何か自分を中心に生きていく。ですから自分の思いに合う人は褒める、自分の思いに合わん人はつまらん人。お互いそうして、どこかでいつも争いを内面に持って生きている。そして業を重ねておるわけでしょう。

そういう我が身を我が身にするということは、私の理性、知性では絶対に分かりません。しかもある程度分かったにしても、それを尽くすということは、我われには絶対に座あり得ないわけです。どこかでふと気づかせてもらうと「本当だな、業が深いものだな」と、それは分かる。しかし我われ在り方全体が、まったく阿弥陀如来によって大悲された私であったというような事は、これはなかなか私たちには分からないわけです。ですから「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がため」であった。その親鸞は「そくばくの業をもちける身」であると。それは親鸞が親鸞の心で知った心ではないのです。つまり、本願をお建てくださった如来のまことに照らし出された私なのです。そこに本当に罪悪深重煩悩熾盛の衆生と・・。

正信偈 27-3

​正信偈に聞く

 27-3 

​平成22年8月27日

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々。  『歎異抄』 聖典P626

 

と、親鸞聖人のおことばとして唯円は述べておられます。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。」これが聞即信です。その次に「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。」と親鸞聖人はおっしゃるわけです。

   私がこの『歎異抄』を若い頃に読んだとき、ちょっとオーバーではないかと思いました。「罪悪深重」でしょう。罪・悪が深く重いと書いてあるのです。煩悩熾盛の衆生とは、盛んなという意味ですけれども、熾は火へんが書いてあるのです。煩悩熾盛です。熾盛というのは燃え盛るという意味だそうです。我われも確かに煩悩の強い人間だし、凡夫といわれれば言い逃れは出来ないです。そういうことは感じますけれども、しかし、親鸞聖人は「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」と。親鸞聖人の言葉の特徴は、向こうに誰か人間を置いて、人間はそういうものですよと、自分はこっちにおいて言うという、そういうことはないのです。

「凡夫というはわれらなり」と。親鸞聖人はいつも自分が入っているのです。凡夫というは、ただ解釈ではないのです。凡夫というはわれらなりと、その時にこの「等」という、我われが漢字で書けば「我等」と、ですから我われというように聞こえます。ところが金子先生は、親鸞聖人が「われら」と言っておられるのは我われと言っておられるのではないといっておられます。「等を我にする」と、「等」はすべてのものです。すべてのものを我に引き受けている。これが法蔵菩薩の心です。「等を我にする」という意味で、単なる我われという意味でいわれておるのではないのです。だけど我われは、すぐに「赤信号みんなで渡れば怖くない」という。我われと思い違いですけれども、親鸞聖人がおっしゃる時には「等を我にする」、これが法蔵菩薩の心だと。苦悩している衆生等はです。法蔵菩薩は、それを我が問題として抱えたわけです。そこから四十八願を建てるわけです。阿弥陀如来の本願に、私たちが遇うということは、「等を我とする」我になるということです。

   法然上人も親鸞聖人もそうですけれども、比叡山を降りたということは、比叡山を見限ったという意味ではないのです。比叡山を通して何が分かったかといえば、人間は修行や学問によって片付くほどを生易しいものではない、しかも時代というものもあるわけです。末法においては、自力聖道門によって救われるということは不可能なのだということを、比叡山の現実を通して知られたわけです。外から見て、比叡山はだめだと、私はあんなものの仲間とは違うというのは自負です。だから比叡山の現状を通して、そこに人間が自力聖道門によって、仏のさとりを開くということは不可能であるという「等」を我にしたわけです。その時に、私のようなものの救われる道は本願念仏のまことを聞信する以外に道はない。だから、法然上人も親鸞聖人も比叡山を降りたということは、比叡山の業を抱えて降りたわけです。そして念仏申す身となられたのです。これは非常に大事なことだと思います。比叡山を単に軽蔑して、比叡山をただ批判して出ていかれたのではないのです。

   法然上人も比叡山で自分を支えてくださっていた人と議論をしておられます。その時に法然上人の気持ちが解かってもらえなかった。そういうことから法然上人は比叡山にいる意味がなくなって、比叡山を下りて行くわけです。しかし比叡山を下りて行かれてからも、決して比叡山や奈良を非難はしなかったのです。ところが法然上人の弟子は批判したわけです。弟子は法然上人の教えに陶酔したのです。そうしたら、今流に言ったら「もう今は念仏の時代だ」というのです。そして、我われはそれによって新しい仏教をというような意気込みです。そういうものが、結局は法然上人の教団を潰してしまうわけです。法然という人は、決してそういうことを言いませんでした。だから、比叡山や奈良の人びとの問題を抱えて、多くの人々と共に、法然・親鸞という方は念仏した人なのです。

そこに「等」という、等を我とする心だが法蔵菩薩の心だと金子先生は言われます。それは仏の本願を受け取った姿ですから、仏願の生起本末を聞いて、疑心あることのない者の姿であり、その人を仏様は広大勝解の人と言い、分陀利華とおっしゃるのです。人間が特別な能力や力があっていうわけではない、またその必要もないのです。そういうところに、親鸞聖人の言葉の深い意味があります。「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、この人を分陀利華と名づく。」と、最後にお念仏の仏法を喜ぶもののお徳、信心の利益を述べられて、そしていよいよ「依経段・えきょうだん」を結ばれるわけです。

 

弥陀の本願念仏は、邪見憍慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し、難の中の難、これに過ぎたるはなし。

 

   これは、私たちの信と疑の問題です。我われの救われるべき問題は、一切が如来によって成就されているわけです。私がどうかなるという問題ではないのです。ただ、それが本当に我が身の問題として受け取れるのか、受け取れないのかということが私たちの問題なのです。だから、

 

弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。

 

  と、老は老人です。少は若いものです。私は老少を年寄りとか若い者というような言いかとをしておりました。金子先生は老というのは人生経験の深い人、少は人生経験の浅い人と言われました。これは、こちらが歳を取って分かります。どうしても「今の若いものは」というふうに言います。それは優越感なのです。しかし今度は若い人から見れば、年寄りは見ておれんでしょう。すべったり、転んだりするわけですから、年寄りは困ったものでしょう。それで老少というのは、時と場合によってトラブルのもとにもなります。それが単なる年寄り、また若いものという意味ではない。人生経験の深い人と、そうでない人という意味です。 

そして善悪の問題です。これは深い問題があります。我われの教団の中でも、若い人と話しているとヒューマニズムと信心が、どこかで境がなくなってきているのを感じます。例えば差別の問題があります、そして戦争の問題もあります。教団は東西本願寺でも戦争中は戦争に協力しているわけです。協力していなかったとは言えないわけです。そうすると、そういう問題を研究者は、ずっと歴史的事業を拾い上げていかれます。そうして我われの教団は、こうして戦争に協力してきたのだと、だから親鸞聖人の教えに背いておるのだと、こういうことを言われます。そして差別の問題でもそうです。

   私は具体的には知らなかったのですけれども、私が長崎の教務所に勤めておりましたところに、教務所の近くにお西の立派な寺がありました。そこのお寺の門徒には被差別部落の人と、そうでない人がおられるそうです。戦前もそうであったけれども、戦後でも本堂の中で座る所が一緒でなかったそうです。だから、被差別部落の人は昔からそうなっていたもんですから、必ずそれ以外のところには座れなかった。それが当たり前になっていたそうです。そのことに対して寺のご住職は何もおっしゃらない。ところが被差別部落のあるお年寄りが法座中に気分が悪くなって、皆大騒ぎになったことがあったそうです。その時に被差別部落の出身の人で、ある大学の教授をしておられた人が法座におられたそうです。その人が直ぐに庫裏の方に行かれて坊守さんにお願いをして、直ぐに庫裏に連れて行って寝かせてくれて救急車を呼んでくれたそうです。そうした時に、被差別部落の人が喜んだそうです。お寺の坊守さんでも、今まではそういうことをなさることは決してなかった。ところが間に立ってくれた人が大学の先生ですから、それに対して敬意をはらって坊守さんがそうなさったのだろうということが話題になったのだそうです。何かそういう話が、いい話といいますか、微笑ましい話として話題になっていたということを聞きました。その話を聞きました時に、私は淋しい思いをしたことを憶えております。

   真宗のお寺でもそういうことが、何の疑問もなしに行われていたのかと。その事自体を問おうとするものが、寺の者にもいない門徒の方にもいない。そういうことが問えないわけです。問えないままにお浄土参りという話だけが話されているのです。だからそこでお浄土参りといっているのは何なのかという問題があるのです。差別しておるものが悪いんだといっている人は、自身は差別しておらんのだというところに立っている。それがヒューマニズムの問題です。いつのまにか差別していることが悪いというた人が善人、言われた人が悪人になるのです。

「われ等」というのはそういうことではないのです。何かそういうかたちでしか教えがはたらいていなかった、そういうことを一番悲しんでおられるのは如来様なのです。如来によって悲しまれているということが、受け取られないかたちでしか教えがはたらいていなかったのではないか、ここに善悪はないのです。だから差別しているのはおかしいのではないかといっている人はそれでは差別する心がないのかというたらあるのです。人間には優越感と劣等感のないものはありませんし、藤代先生は差別問題というのは結局、先祖をたのむ自力の心の問題ではないかと言っておられました。だんだんと市民運動も盛んになってきましたし、今申しますように民主主義といいますが、ヒューマニズムというようなものが、非常に強くはたらいてくるようになりましたから、そういうものと親鸞聖人が言おうとなさっておる、大悲をいただくということが分かりにくくなってきておる。今の新しいうごきは、いつのまにか善人悪人を造っていく。そしてそれが問えなくなってきておる。そういうところに如来の本願ということが受け取り難くなっている。そういう問題があるのだろうと思います。そういう問題を最後に「結誡・けっかい」として、

 

弥陀の本願念仏は、邪見憍慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し、難の中の難、これに過ぎたるはなし。

 

と親鸞聖人があえて最後におっしゃる。最後に何でこういうことをおっしゃるのかという問題があるわけです。また来月、こういうことについてお話を致します。

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