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​正信偈に聞く

 43-1 

​平成24年2月19

 みなさん今日は。寒いのにようこそ参詣頂きまして有り難うございました。

前回は、テキストから離れまして、曇鸞様が仙人の道に迷われたことを通して、仏教の本来の姿とは何かというようなことを、皆さんと一緒に勉強をしわけでございます。

今日は、本文に入ります。

 

天親菩薩論註解・天親菩薩の「論」、註解して、

【曇鸞大師は、天親菩薩の「浄土論」に対する註解を造って、】

報土因果顕誓願・報土の因果、誓願に顕す。

【浄土往生の原因と結果は、如来の誓願によることを顕かにされた。】

往還回向由他力・往・還の回向は他力に由る。

【往相も還相も回向はいずれも阿弥陀如来の本願力である他力による。】

正定之因唯信心・正定の因はただ信心なり。

【往生が確定する因は、ただただ信心である。】

感染凡夫信心発・惑染の凡夫、信心発すれば、

【煩悩に汚れた凡夫であっても、信心を発すならば、】

証知生死即涅槃・生死即涅槃なりと証知せしむ。

【迷いの状態が、そのまま迷いを離れた状態になることを曇鸞大師ははっきり、示された。】

必至無量光明土・必ず無量光明土に至れば、

【凡夫が必ず無量の光明が輝く浄土に至るならば、】

諸有衆生皆普化・諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。

【穢土のあらゆる衆生をみな例外なく教化することができると言われた。】

 

  • 「注解」―「浄土論註」あるいは「往生論註」ともいい、天親菩薩の「浄土論」の注釈書。

上下二巻に分れ、上巻は「浄土論」の総説分、下巻はその解義分の解釈をされたものである。本書の大意は「浄土論」における衆生往生の因の果も、ともに他力の回向であることを示されている。宗祖は和讃に「天親菩薩のみことをも、鸞師ときのべたまわずば、他力広大威徳の心行いかでかさとらまし」と述べられているように、この註解によってはじめて論の正意が知られたことを感謝され、この註解の論と同格に仰がれ、「論註」と言われたり「註論」とも言われている。 

 

 インドの高僧に「龍樹菩薩と天親菩薩」を親鸞聖人はあげておられます。天親菩薩が「浄土論」という書物をお造りになりまして、私たちのような五濁の世、無仏の時代に生まれた者は阿弥陀仏の本願におすがりして、浄土に往生することにおいてのみ真の仏道を得ることができる。だから、どこまでも阿弥陀仏の本願を信じて浄土往生を願わねばならんということを、天親菩薩は浄土論の中にお説きになって、私たちにそのことをお勧め下さったということは、これまでに皆さんと勉強してきました。

   次に、親鸞聖人は中国の高僧に「曇鸞・道綽・善導」をあげておられます。今勉強しておりますのは、曇鸞大師のところでございます。

   曇鸞大師と言う方は、もともと四論宗という竜樹菩薩の教えを依りどころにした学派の高僧として有名な人でございましたけれども、たまたま「大集経」の注釈書を書こうと思い立たれたのですが、途中で御病気になられた。気疾(きしつ)と言って、喘息かもっと重い肺結核のような病気だったかもわかりません。病気になられて、せっかく思い立っておられた大きな仕事が出来なくなった。そういうことから、曇鸞様は、中国には仙人の道があって、不老長寿の道が説かれた道教の教えがある。その教えを説く仙人の所に行って、曇鸞様が不老長寿の道を求められた。そしてこれで大丈夫だと、これでいよいよ「大集経」の注釈書を完成することができるということで洛陽に帰って来られます。

   たまたま洛陽には、菩提流支三蔵という方がインドから来て、お経の翻訳(訳経)をしておられた。この翻訳(訳経)は国家的な事業ですから、中国の若い秀才をたくさん集めて、そしてその人たちに手分けをして、インドの言葉で書かれたお経を中国の漢字になおすという翻訳する仕事をしておられる方として有名であったわけでありましょう。

   ちょうどそこへ曇鸞大師が戻って来られて、そして菩提流支三蔵にお会いになって、「中国に昔からある不老長寿の道を説いた教えが、仏教にもありますか」と言うて尋ねられたら、菩提流支三蔵が非常に歎かれた。

   「あなたは仏教を勉強しておって、いったい何を考えておるのですか。長生きしたところで、迷いの世界を十年なり十五年なり長生きするだけのことではあって、結局は迷いを超えていくことはできないではありませんか。だから仙人の道では本当に迷いを離れて悟りを得ることはできません。仏教の勉強は、たとえこの身は無常の身であっても無量寿という永遠の命を得るところに仏教の基本の教えがあったのではないですか。あなたはいったい何を勉強しているのですか」といって叱られて、曇鸞大師は目が覚められた。そして、その時に菩提流支三蔵から「観無量寿経」を授けられます。

   そこから曇鸞様は、自分のような者は、お念仏の仏法によって救われるよりほかに道は無いのだということに初めて目が覚められるわけです。そして曇鸞様は天親菩薩が浄土往生を進めておられる「浄土論」について、その了解と注釈(净土論註)を書かれます。そして親鸞聖人は、曇霧様がお書きになった「浄土論註」の御恩を非常に大切に考えられたわけです。ですから宗祖は和讃に、

 

天親菩薩のみことをも、鸞師ときのべたまわずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし

(高僧和讃 曇鸞和尚 五九三頁)

 

と述べておられます。

親鸞聖人は、天親菩薩の教え「浄土論」があっても、曇鸞様が出て来られて「浄土論注」を書いてくださらなかったならば、他力広大の威徳の信楽、南無阿弥陀仏のおいわれを私は気づかしていただくことはできなかったであろうといって、この曇霊様の「浄土論註」を大切になさって、それを通して天親菩薩の「浄土論」をお読みになり、法然上人から習われたお念仏によって、浄土往生して仏になるという道の意味を親鸞聖人は明らかになさることができたということです。そこのところをこの正信偈に、曇鸞様が「天親菩薩の論註解して、」そして「報土の因果、誓願に顕す」と書いておられます。

  「報土」というのは阿弥陀仏の浄土の事です。ここでただ浄土と言われないで「報土」という言葉をわざわざ正信偈に使っておられます。「報土の因果、誓願に顕す」と。これは「真実報土」という意味を現わそうとしておられるわけです。

   それに対して、親鸞聖人は「方便化土」と言う事を仰います。仏教で「方便」というのは「たより」という意味ですけれども、真実なるものに直ぐに入れない人、その人のために仮に真実に入るための手だてとしての「たより」です。手だてとしての浄土を説く。それは本当の浄土ではない。

   化土と書いてありますけれども、真実の浄土ではない、しかし人間はなかなか本当のお浄土に生まれることはできないために、わざわざそういう者のために方便化土が説かれておるということを親鸞聖人は仰るわけです。ですから私たちが一般的に、死んだら極楽に往ける、南無阿弥陀仏と言っとれば死んだら極楽に行ける、そして極楽は非常にいい違涯だという形でお浄土を考えておられる人がおられるとするならば、それは人間の頭で考えていることですから、それは方便化士です。親鸞聖人が仰る本当の浄土ではありません。だから生きているときは大変だけれども、死んだらいいところがあるだろうというように、頭で、つまり観念ですね、観念で作り上げた世界。

   仏教は浄士とか穢士という言葉を使いますけれども、その「土」というのは境涯という意味です。何か、生きている時は穢土、死んだら浄土というふうに、そういう世界があると考えますが、これはそういうことではなくて境涯です。「穢土」というのは穢なる境涯ということです。我執煩悩に依って穢された境涯、それが我々凡夫の境涯です。

   「凡夫」というのも仏教の言葉で、お悟りを開かれた仏様に対して、迷いの凡夫という意味です。迷いを迷いと知らないということが迷いです。それが凡夫だと仏様が仰るわけです。私が私を凡夫と言っているのでなくて、私たちは我執煩悩を基にして、善悪の世界におるわけです。いつも「絶対と相対」ということを言いますけれども、我々は相対の世界におるわけです。ですから差別動乱という言葉を金子先生はよく使っておられましたが、人間はお互いに差別して、それで乱れた世の中になってくる。判りやすく言えば、色が白いとか黒いとかこれは差別です。

   今のアメリカの大統領はオバマさんですけれども、アメリカの歴史のなかで黒人が大統領になったのは初めてだと、アメリカの人が威張って言っているということはおかしな話しです。そこには白人を優秀だと思っている、だから黒人を差別している。黒人は、奴隷としてアフリカから連れて来られて、牛や馬と同じように、金で売り買いされた、その子孫が黒人です。

   そういうことをしたのは白人ですから、そのこと自体が非人間的な愚かな行為です。しかし、そう思わない。今でもアメリカの南の方、つまり農業が盛んな所に行きますと保守的な地盤だそうですが、レストランで黒人を入れない店があるそうです。そのレストランを経営している人がそういう信念を持っているわけです。そしてそういう形で自分を優越の場所においていく、そういうことをせねばならないほど悲しい愚かな心だとは思わない。なぜかといえば、差別のところで俺は上だというところにおるわけですから、差別されて悲しんでおる者が居っても、そんなことについては思わない。

   何かそういうところに我執煩悩という、自己本位の俺がと、思いを基にした煩悩(欲)、俺は白人だという名誉欲。

白人どころではないですよ。

   平安時代は、この世の中の政治はお公家さんが握っていました。そして士族といってもその土地の豪族にすぎませんでした。公家社会をひっくり返して武士の世界を造ったのが、平家の平清盛です。もっとも、もともと平家というのは植武平家というわけですから、天皇はいっぱい奥さんがいて、子供がたくさんいるわけですから相続で争う、だから正式な所ほど皇太子にして、後はみんな臣下にしたわけです。その巨下にならされたものの姓が平(たいら)であ ったり源(みなもと)であったり、だからもともとは王子ですよ。

   同じ武士でも「平」とか「源」というのは、桓武平家、清和源氏といいますからね、同じ源氏でも平家でも姓がたくさんあるわけです。その中で一番力を持ったのが清和源氏と桓武平家。これがやがて貴族をひっくり返して武家政治を造ります。やがて、おごる平家が滅びて源氏が取って代わって鎌倉幕府を造るわけです。

   鎌倉幕府を造った源頼朝の奥さんは北条正子です。この北条家は平家の流れだと言ってますが、だいたい伊豆の豪族です。だから源頼朝を押し立てて武士の世界を造って鎌倉幕府になっていくわけですから、普通は武士といっても、その地方の豪族です。だから武士はほとんど、土地の名前を自分の姓にしているでしょう。

   十時という姓は大分の出身だそうです。瀬高に光源寺という寺があるのですが、そこも十時と言う姓です。大谷派の寺では光源寺と光善寺が十時姓です。それは、大分県で戦国時代の殿様の子孫だそうですよ。そして戦国時代に大友氏に統一されて、その間に減びていったわけでしょう。柳川では蒲池とか他にいっぱい豪族が居たのではないでしょうか。そして佐賀の電造寺に滅ぼされて、竜造寺は鍋島にとって変わられるでしょう。そういう豪族が一杯いたんじゃないですか。そういうのが武士です。

家柄を言うのは、本当はおかしいけど、人間はあんたとは違うと言いたいわけです。言いたい根性が迷いです。それが苦悩の基です。

正信偈 43ー2

​正信偈に聞く

 43-2 

​平成24年2月19

   人間の苦悩は差別動乱、つまり我執を基にした根性から起こったのが苦悩です。都合のいい時はいいけど、都合がいいということはそのまま悪くなるということですから、苦悩の基は迷いです。迷いは我執を基にした煩悩から出て来ますから、その元をきちっと抑えなければ、人間の問題は根本的解決にならないと教えるのが仏教でしょう。

しかし、これはなかなか難しい問題です

   昨日、天皇様が心臓の手術をされました。私の仲良しだったお医者さんが長崎の是心会病院の院長を長くなさったですが、もう去年癌で亡くなられましたけれども、その人が言っておられました。人の体にメスを入れるときは

「市長じゃ、町長じゃ、家柄とかを考えていたらメスは入れられないですよ。単なる人間です、そして病気を持っている人間です」と言っておられました。専門は外科医でした。

   それでも奥さんと子供は人に頼むそうです。後は「町長だろうが県知事だろうが関係ないですよ」と言っておられました。またそれがあれば判断を誤るでしょうからね。だから天皇様も人間です。「上は帝を始めとし、逃れがたきは無常なり。」だから仏教というのは冷たい教えですね。同じ凡夫だと。

   権威・権力は、浄土には関係ありません。そういうころに仏教があるわけです。それでも人間は、化土に自分の思いを持ち込もうとするわけです。持ち込んだ世界を造ろうとするわけですよ。一杯飲んでいる時は、この世の極楽ということをいいますけれども、極楽極楽というのは、化土にもならん、冗談でしょう。

   御門徒の若奥さんが言っておられました。子供が先天性のものだったか腎臓が悪くて県病院を、入退院を繰り返していて、その子が亡くなるときに「母ちゃん怖い」と言ったと言うのですね。小学生だったでしょう。「母ちゃんはここに居るよ」といって、手を握ってやったけれども、何も言うてやれなかった。その時に、せめて「死んだら仏様の世界がある」とか、普通の時には言えるだろうと思うけれども、子供が目の前で死んでいくときに言えなかった。「やっぱり信じてないからですよね」、というて泣きなさった人がありますよ。

   その時に、「仮」ですけれどもね、命終わる時に仏様の世界があるのだと、けっして寂しいところではないのだと、言えるということは大事なことです。それが化土でしょう。いらないということではないのです。しかしそれは方便化土で、真実に入ることができない、その者のために仮に手だてという意味です。方便というのは嘘ということではありません。真実なるものに入らしめる手だてとしてもうけられた世界です。これは南無阿弥陀仏のまことを信じることができない、疑いの心のある人が生まれる世界。しかしそれは決して方便化土に生まれたから、やがて地獄に往くということではない。これは真実なる浄土に生まれるための手だてということを視鸞聖人は仰るわけです。

   ちょっと話が横道にそれてしまいましたけれども、そこで「他力」という言葉が使われていますが、他力とは、如来の本願力という意味です。阿弥陀如来の力、本願のはたらきです。

 

「他力」と言うは如来の本願力なり。

(教行信証 行巻 二一三頁)

 

と親鸞聖人は言っておられます。

   これは他の人の力と言う意味ではありません。世間一般では「人の褌で相撲をとる」、それは世間の話で、もともと他力というのはそういう意味ではないのです。この「他力」と言う言葉を仏教の歴史の中で初めて使った人が曇鸞大師です。

   しかし、この言葉は広く世間では間違って受け取られていますけれども、阿弥陀如来の本願力ということは、穢土を穢土と思わない、先ほどいいましたように家柄がなんだとか、そして黒人かどうのこうのと言っておる世界は実は悲しい世界です。そこに救いはない、だからそこに留まらしめたくない、それを真実なる浄土に生れさせたいと願われる力という意味です。願われる力、それを阿弥陀如来の本願力、それが他力です。

   その他力と言う言葉に対して、当然自力という言葉があるわけです。自力と言った場合は、「わが身をたのみ、わが心をたのむ」と親鸞聖人は言っておられます。力と言ってありますから、如来の本願の真に依らない、わが身を頼む、身と言った場合は能力という意味もあります。

   今先ほど申しましたように地位とか名誉というものは身についているものですよ。そしてわが心を頼む、その心は、「われを善しと思う心」ということを親鸞聖人はわざわざ仰るのです。これはなかなか面倒な心だと思いますね。

  私は相撲がすきなんですよ。私は隠居部屋に家内と二人居るのですけれども、テレビの位置が横向かないと見えない所にあるのですね。ご飯に向いて食べるとテレビが見えないわけですよ。だから横向いて食べる。そうすると食べこぼしがおこるわけですね。入れ歯になっているものですから、余計に食べこぼしがあるわけです。

 ある日のこと、家内が百円ショップでエプロンみたいなものを買ってきて、これをかけてくださいと言われて、これには私もびっくりしたですけれども、これはごもっともと思って何度かかけましたが、相撲がすんだら今はかけませんけど、何かその時、瞬間的に嫌な感じがはたらくのですね。何かバカにされたような、子供あつかいにされたような、しかしこぼしておるのだから子供と同じだけど、事実はそうなんだけれども、何かそれを認めないわけではないのね。ただなんとなく我を頼む心という心というか、そういう心がちょっと働いて、なるほどなぁと思いましたね。だからそんなことは度々あるでしょう。

 この頃、そこに本光寺という寺があるのですけれども、そこの坊守さんが久留米の親戚の寺で、私がお説教するのに参っておられて、終わって帰られるとき、私の自動車で本光寺の坊守さんを送ったわけですよ。そしたら私がお説教の中で、今のことを話したらしい、私は忘れていました。

 そしたら車の中で坊守さんが、「先生、面白い話をされた」と言われて、私は「何の話ですか」と言ったら、「涎掛けの話しです」と。その方のご主人(住職)は、私より若かったけど早く亡くなりました。その人は北陸の方から養子でした。その御院家さんがご飯を食べるときに、こぼすもんだから、坊守さんが涎掛けのようなものを用意して、これを附けてくださいと言ったらしい。

 そしたら御院家さんが、「俺をバカにするな」と言って腹かいたって。そしたらお母さんも、「なんちゅうことをしなさる、御院家さんをバカにして」といって怒りなさった。だから涎掛けをしてもらえなかったといって、…しかし私が涎掛けをしたという話をしたもんだから、「あなたはようされましたね」と坊守さんがいいなされた。「おれをバカにするな」と言われた気持ちもよく判ります。やっぱりどこかに俺は奥さんより上とか、そして俺をバカにするなとか言う心というのは、これは「業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」という言葉が親鸞聖人にはあります。

 業というのは我執の生活の積み重ねなんですね。それを仏教では生活の歴史といいます。しかしそれは、単なる私個人のものだけでもないでしょう。そういうものを人間はみな持っているわけです。それが業因というのです。種です。だから私たちは人間として生きて来た、我執を基にして生きて来た種がずっと私の中にあるというわけです。それを仏教では阿頼耶(アラヤ)といいます。

 「アラヤ」というのは積もるという意味です。ヒマラヤ山脈というのは「ヒマ」「アラヤ」という意味です。「ヒマ」というのは雪のことです。インドの方から見るとあの山は雪がいつも積もっているでしょう。だからヒマラヤというのでしょう。アラヤというのは、私たちがいろいろ思うたり、いろいろしたことが全部私の心の深いところに積もっていると言う意味です。だからそれを阿頼耶(あらや)と音訳しました。意味は「蔵」と言っています。蔵識(ぞうしき)といています。蔵に入っている。それが縁によって出てくるというわけです。どんな因があるか判らない。それが縁によって出て来るわけです。

 仏教は因縁ということを教えているわけですが、一般は因果で考えます。出て来た結果には必ず原因がある、これを因果律といいます。これを否定したら少なくとも人間世界は成り立たなくなります。人間は因果律でものを考えていっているわけです。本当は、それで全部包めているかどうかは判らないわけですよ。だから偶然といった言葉が出てくる、ということは因果律で包めないわけです。

 しかしそれは、我々には智恵が無いから判らんけれども、もっと科学が発達したり、我らの知恵が広がってくれば判るだろうということを、一応偶然と、こう言いますけれども、それは因果律というものをもってものを考えている証拠です。モミが稲になる。しかしモミがあれば稲になるかというたらならないのですよ。それで仏教は縁ということを言います。それが仏教の特徴です。

 インドの人は縁ということを言います。今の言葉で言うたら条件とか環境という意味です。モミ種をカマスに入れて蔵に放り込んでいたら百年経っても稲にならないわけです。それはなぜかというたら条件が悪いわけです。またそれを知っているから保存はそういうかたちでするわけですね。だから因が縁を待って果が生まれます。それはモミ種を大地に下ろす、太陽の光や熱や、条件というのは限りなくあるでしょう。しかも今日植えて、今日芽が出るわけではありません、時間というものがはたらくわけです。雨が降った、嵐が来たというようなことになれば、モミが稲になるために働いている条件は宇宙全体に広がっているということでしょう。宇宙全体から見れば太陽系というのは小さな宇宙だそうですね。それと無関係ではないということです。

 だからお釈迦様が、空とか無我といっておられることは、そういう環境と自分が一つになっているということです。しかし、普通人間は自分と環境を対立させて考えているわけです。だから空とか無我という考え方は特に欧米の人の考え方の中にはないのですよ。

 人間は環境である自然を全部利用して、自分に都合のいいように造り変えると言うのが科学ですから。それを無制限に広げていくわけです。しかも作った物は全部ゴミになる。大量生産大量消費でしょう。そして自然に帰らない物を無制限に造っていますから。後進国という言葉がありますけれども、そういう国の人たちが、今日本人のような生き方を始めたら地球が六ついると、これは早くから言われていますよ。現在の地球には資源はそんなにはないのです。しかし科学は発達しているといっておる者が、つまり優越感に立っている者は限りなく資源を堀り尽くして、そしてそれを捨てていく。

 私等は進化論で育ちました。一番進化していないバクテリアみたいなものからどんどん進化して、ここまで来たというのが進化論です。一番進化したのが人間だといいます。しかし今は進化しているとはいわないそうです。環境との関係の中で変化したというそうです。そこで人間だけが知恵をもった。人間の知恵は煩悩と繋がっていますからね、知恵があるから煩悩があるわけですよ。他の動物には煩悩はありません。

 煩悩の一番もとは「貪欲」・「嗔恚」・「愚痴」です。これを「三毒の煩悩」といいます。「貪欲」はむさばる、「嗔恚」は怒り腹立ちと言う字です。そして「愚痴」というのは目が覚めないという事です。真理に暗いということ

その時に「貪欲」は人間だけなんですね。

正信偈 43-3

​正信偈に聞く

 43ー3 

​平成24年2月19日

 例えば食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、財欲、これを仏教では「五欲」といいます。「食欲・性欲・睡眠欲」までは人間も他の動物も同じです。「食欲」食べねば死にます、だから「個体保存の本能」と哲学者は言うらしいですね。そして「性欲」は子孫を残さねばなりません。種族保存の本能というそうです。人間だけがこれに貪欲がくっついているわけです。

 例えば「食欲」を考えたら、他の動物にとっては餌です。餌と言うのは腹いっぱい食ったらもうそれでいいわけです。しかし人間の食欲は限りがない。人間くらい物をたべる者はいないそうですよ。ツバメの巣まで食べる、ゲテモノ食い、何でも食べる。しかも人間は貪欲ですから腹いっぱいになっても食べるのです。

 私は散歩するようにお医者さんから言われておるけど、今は寒いから止めていますが、食い過ぎという話でしょう。餌ではないのです。ペットは、犬でも猫でも糖尿病が増えて来ているそうですね。そして、安産の象徴の犬が家の中で飼っているもですから、食べ物や自由に動けないために雑産が増えているそうですよ。夏の暑い日など、誰もいないのに犬のためにクーラーをつけている。大事にしているのですが、犬が犬でなくなりはしないかと思いますね。

 テレビを見ていたら、ライオンは二十日ぐらい食べなくてもいいそうですよ。ということは二十日も食べられないことがあるのだそうですね。だから胃袋がそうなっているといいます。シマウマは群れになっているわけですから、ライオンはそれを追って捕えて食べる。腹いっぱい食べたら、まだ肉が残っていても、そのまま立ち去ってしまいます。食べ終わったら何処か木の下へ行って寝そべっている。そしたらハイエナが来てそれを食べて、腹いっぱいになったらどこかへ行ってしまう。そして、もっと弱い動物が来て残りの物を食べて、最後は鳥が食べて骨になったら大地に帰ります。自然とそのままです。

 植物はもっと自然そのままですからね。花には匂いがありますね、あの匂いは虫を引き寄せるために出す匂いだそうですね。「におい」の研究をしている人がラジオの放送で「自然というのはすごいですよ。」と言っていました。時間によって匂いが違うそうですよ。そして引き寄せたい虫によって匂いが違うそうですね。それが自然になっているわけですね。そしたら、そこにミツバチが来て、「雄しべ」から「雌しべ」への愛粉をする。だから花で美しくして目立って、そして寄って来させて蜜を取らせる代わりに媒介の役目をさせる。また甘い実を着ける。そうすると鳥が来て食べます。鳥に実は食べられますけれども、その鳥がやがてどこかで糞をしてくれる。そしたら糞になって種が一緒に落ちる。

 だから自分の子孫がずっと残っていく、それは花や木自身の意思ではないのですね。命の持っている不思議です。そうして、ずっとこの世の中で何百万何千万と言う植物と動物が自然と共に生きてできたものでしょう。そして変化してきたわけです。人間でいうたらもっとも合理的に生きているわけです。

 そこに智慧をもった人間だけがその自然から立ち上がってしまった。そうすると食欲が貪欲になってくる。すべて財欲と繋がっている。同じものを食べても値段の高い物安い物とあるでしょう。名誉欲とも重なっている。ただ餌として食べない、だから食文化があるわけですよ。皿一つとっても違います、美しいのですけれども、うっかりしていると欲のために人間が振り回されていく。

 「性欲」なんて犬や猫は一年に二回、つまり子孫を残すためだけの営みでないですが、人間は一年中いいですよ。これは子孫を残すためだけではない、愛欲が繋がってくる。犯罪はみな貪欲から出てくる。性欲のために動物は犯罪を起こしません。また殺し合いをするのは人間だけです。同じ種族で殺し合いするのは人間だけですよ。こういうことを考えてみますと、進化といえるかという話しですよ。

 それを仏教は始めから人間の「不健康性」ということを言っているわけです。つまり他の動物は自然とともに生きているわけですから、植物はなおのこと非常に健康なわけです。明るいわけです。暗さがあるのは人間だけですよ。しかも思うようになれば満足があるかといったら、ないのね。人間の欲には限りがない、だから「貪」なんです。

思うようにならなかったら「瞋恚」これが争いです。怒り・腹立ちです。そして思うようにならなかったならば殺し合いをする。これも人間だけです。そうした在り方に、いつまでたっても目が覚めんという話ですよ、それが愚痴です。

 「人間に未来はあるのか」と聞くと、「無い」という悲観的な見方をする哲学者もおられます。坂道を駆け下りるようなものだと、止まらないと、こういうことを言う人もいるのですよ。我々身近なところで考えて見ても、本当に限りのない欲を、どこまでも人間の思うようにせねば安心できんと言う人間の在り方の全体を改めて問い直していくとき、人間の知恵から起きて来た煩悩ですからね、人間の知恵で人間の問題を尽くすということはできないのですよ。他の動物と共生と言ってますけど、背に腹ははかえられないですからね。人間の知恵から出てきている煩悩ですから、それを忘れてはいけないですよ。

 他の動物には知恵はないですから、知恵がないということは自然と一緒におるということはできないのです。人間だけが自然から立ち上がってしまった。だから人間に不安があるのだと言われます。死を恐れるでしょう。犬や猫は死を恐れません。そのままなんですね。泣いたり叫んだりしないわけです。遺言状もいらんわけです。人間と言うのは非常に複雑な心になっているわけです。それは人間の知恵から出て来ていますからね。

 人間を超えた智慧、人間の知恵を超えた、つまり我執煩悩に基づく知恵を超えた智慧。それをどう私たちが手に入れることができるか。その智慧の世界が「真実報土」です。そこで人間は初めて、すべてのものに対するご恩ということが分かるのです。「報土」という意味は、阿弥陀仏がそういう世界に私たちを生まれさせて、私を仏にしたいと願いご苦労してくださった、そのご苦労に報いられた世界という意味です。阿弥陀仏のご苦労「因」によって報われた世界という意味です。

 「化土」というのは、人間の観念で作った世界という意味です。そういう私に、そこに救いはないということをどうかして知らせて、本来といいますか、真実の世界に帰らせようとするのが働いておる、それが阿弥陀仏の本願という言葉になっているのです。それは、お釈迦様が発明されたというものではなくて、お釈迦様自身がその法に触れられて、本願の真に触れられて、お釈迦様自身も南無阿弥陀仏と、その阿弥陀仏に南無なさった。その心を天親菩薩は、

 

世尊我一心・帰命尽十方・無碍光如来・願生安楽国

 

と顕らわされました。だからその世界に私達がどうしたら生まれることができるかいうことで、天親菩薩は五念門ということを説かれるわけです。浄土に生まれる行として説いてあるのが「五念門」です。

 

五念門    五功德門

一、礼拝門    近門(ごんもん) 

二、讃嘆門    大会衆門(だいえしゅうもん)

三、作願門    宅門(たくもん)

四、観察門    屋門(おくもん)

五、回向門    園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)

 

 先ず宗教は「礼拝」から始まるわけです。「近門」は宗教に入る近門です。

「讃嘆」というのはほめたたえるということです。阿弥陀仏の浄土、阿弥陀仏をほめたたえる。そして「大会衆」というのは真実の友達ができるということです。一緒にお念仏を喜ぶ人ができるという意味もありますけれども、仏教とか宗教には関係ないと言うている人の心の中にも、本人が気づいておられなくても、そういうものを願う心が働いておるのだと、それが本願です。そのことを信ずる人には、本当の悪人なんていないし、何か差別しなければならない人はいないという世界が出てくるという意味です。

「作願」というのは、浄土に生れようとする願いです。それを「宅門」と言っています。「宅門」というのは屋敷です。この光善寺でいいますと境内です。

「観察門」は阿弥陀仏の浄士を観察する。「門」というのは教えという意味ですけれども、「屋門」というのは家の中です。この「近門・大会衆門・宅門・屋門」が悟りの中身です。浄土に生まれて救われていく中身です。

五番目が「回向門」と言います。自分が得た喜びをすべての人に振り向けていくという意味です。だから「園林遊戯地門」と言っています。それは人々と共にこの仏法を喜んでいく、遊戯する。園林というのは公園のような所で遊んでいるような世界。

「礼拝・讃嘆・作願・観察」が自利です。自分自身が救われていく。五番目の「回向門」が利他です。こいうことを教えられたわけです。この五念門をどういう形で受け取っていくかということについて、曽我先生の言葉を参考のために載せておきました。

 

【参考】

『五念門ということは、要するにお念仏を称えるということでしょう。

お念仏を称えれば、おのずからその人の心も清浄になり、身の立ち居振る舞いも尊いものになる。』

 

 我々の日暮らしの生活は我執煩悩だけで生きていますから、そこの中で宗教性をもつとすれば、私の口から南無阿弥陀仏と出て下さることを離れてありません。だから、要するにお念仏を称えることが五念門の行ということの意味でしょう。

 

『お念仏を称えれば、おのずからその人の心も清浄になり、身の立ち居振る舞いも尊いものになる。常に仏の前に立っているという安心感があるから誰も見て居らなくても、礼拝する。

身業の上につつしみの相がある。これが「礼拝門」である。

言葉も尊い言葉を使う。人の悪口をいわず、ほめるようになる。これが「讃嘆門」である。

そして常に自分の心の中に祈りをもつ。祈りとは現世祈祷をすることはではない。常にみ仏のおまもりに頂かることをお祈りするのである。

 

三朝浄土の大師等 哀愍摂受したまいて 真実信心すすめしめ 定聚のくらいにいれしめよ

(正像末和讃 六一七頁)

 

これは親鸞聖人のお祈りでしょう。この「作願門」という自分へのお守りがないと、間違った邪見をおこすのである。だから十方恒沙の諸仏、阿弥陀如来等がおまもり下さるのである。

これが「作願門」

「観察門」というのは、ものの道理を正しく見てゆき、自分自身の心の動きを観察していくことである。』

 

 清沢先生は「自己を省察すべし、大道を見知すべし」と言っておられます。大道というのは南無阿弥陀仏のことを言っておられるのです。観察門というのはそういう意味だと、曽我先生は仰いますね。

 

『最後に「回門門」というのは何時でも人間に同情同感することである。相手の立場に立って行くのが回向ということである。』 (曽我量深「実語抄」)

 

 これは「利他」の問題です。何か私等の特別な人を助けるというようなことはなかなか難しい、しかし本当に相手の身になることができれば、自分も助かり相手も助かるのです。それが成り立つもとは、私が私の心、つまり自力でやるということは不可能です。

 都合のいいときは相手の身になることもできますけれども、すぐに都合が悪くなりますからね。そうすると争いになってしまいます。相手を憎んだりせんならんようになってきます。それが私たちのありのままの姿ですから、そこに五念門という形でお念仏の教えを天親菩薩は説かれたと、こういうように曽我先生は仰っています。そして、それは他力から来るということを強調された人が曇鸞大師です。

 だから曇鸞大師は、天親菩薩と言われるような人でさえ、なにゆえ大無量寿経を通してお念仏の教えによって浄土に生れようとなさったのだろうか、自分で修行して学問して悟りを開けていけたはずなのに、ということを曇鸞大師はお考えになります。

「浄土論註」の一番初めに「五濁の世、無仏の時において阿毘跋致(あびばっち)を求むるを難とす。」とこう言ってあります。

 「五濁」というのは、「劫濁・煩悩濁・衆生濁・命濁」です。今の時代で、一番面倒なのは「見濁」じゃないですかね。皆、面々が俺が俺がと我執を立てていく、「見」というのは思想です。そしていつも悪いのは他人、自分は悪くない、政治が悪い、教育が悪い、みんな悪者は他人、そう言っているあなたは何かという目がない。現在と言う時代は、それを「濁」と言っています。

 「濁」というのは「にごり」ということですから、水でも濁ったら向こうが見えなくなります。透明性が無くなるという意味です。何か今の世の中は人間の世界がどっち行くのか判らん気がせんでもないですよ。こんなことしとって本当に大丈夫なのかという、これは「濁」ですね、透明性がない。その濁を「劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁」と、五つ数えています。

 「命濁」は宗教性が失われて行く、そういう五濁の世、そしてそれを指導してくだきる仏様が居られない、無仏の時において、「阿毘跋致」と言っています。本当の仏道(阿毘跋致)です。本当に正しい仏道を求めることは困難だと、そのことを天親菩薩がお考えになったわけです。お釈迦様が亡くなって九百年経っていますからね。

 お釈迦様の教えの中に三部経というのがある。大無量寿経を見たら阿弥陀仏の本願ということが説かれていて、浄土に生まれる形において、私たちが初めてこの穢土を離れることができるということをお考えになった。しかし天親菩薩をして、そうせしめたものは他力に因る、それに私達が出遇うことによって、私たちも天親菩薩と同じ世界に生れることができるということを「他力」という言い方で強調されたのが曇鸞大師ですね。

 親鸞聖人の教えは他力の教えというでしょう。そういうことを初めて言い出した人は曇鸞様です。天観菩薩の教えを依りどころにして「本願力回向」ということを私たちに教えて下さったのが天親菩薩だと、「往還回向由他力」とありますが、「往相回向」・「還相回向」というのは、「親鸞一人がためなりけり」と、自分自身が救われていく道、そして今度はすべての人々と共に救われていく道、そういうことは他力に依るのだということを言われたわけです。

 

 今日は煩悩の話まで立ち入って話したものですから、時間が経ってしまいました。しかしこの頑悩の教えは大事です。私たちは動物が煩悩で、人間には理性があると思っていますが、人間が考えている理性が煩悩の基だということは、私たちは注意がいります。そこまで人間を尽くしたのはインドの人です。欧米の人はそういう考え方ではないのですね。

 やっぱりどこかで進化論のようなものが出てくるものの考え方が、欧米の人のものの考え方ですね。だから欧米では科学が発達しました。しかしアジアでは科学は発達しませんでした。なぜかといったら、アジアの人は自然を非常に大事にするのですね。そういうところの問題が今問題になっているのではないですかね。そして、それが原子力発電所への依存度が高いわけですから、急に廃炉にはできないでしょう。徐々にそういうものを減らしていかねばいかんのだと思いますが、これはみんなして、一人一人、自分自身の問題として考えていかねばならんのでないですからね。

 東京電力の社員の人たちが肩身の狭い思いをしているそうですが、東京電力で働いている人が悪いわけではないですからね。今の日暮しは電気のない日暮しなんて考えられないわけですから、皆して作ってしまった世の中ですから、東京電力の人を責めたぐらいで片付く話しではないですよ。

 私たちが本気で、どういう生き方をせねばならんかということを考えていくときに、この煩悩の我執というのは非常に大事な教えだということを中心に今日は話しました。それが穢土ですね。だから浄土に生まれるという意味がどういう意味かという問いが、そこにあるわけですよ。今日はこれで終わります。有り難うございました。

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