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​ 浄土真宗の教え 

 01 

「問題は常にあり、問題は内にあり」(1)

 

これは住岡夜晃(すみおかやこう)という先生のお言葉です。私は若い頃書物でこの言葉に出会い、仏の教えは実はこのことを教えられているのではあるまいかと気づかされました。

「問題は常にあり」と言われる。考えてみれば本当にこの世は問題ばかり。大は国家・政治の問題から、小は我々の家庭の中まで、金で苦労せねば、健康の問題。子育ての問題から教育の問題、就職のことが片付けば、今度は息子の結婚の問題から、娘がいればやはりいい相手を見つけて嫁にいってもらわねばこれも心配、そして今度は孫の世話。家庭の人間関係、今の時代はこれも大変です。そうこうしている間に、いつの間にか自分が老を迎えて身体はガタガタになり、目の前に迫る死の予感に脅えねばなりません。これは最後の大問題。勿論楽しいことも、嬉しいことも沢山ありますが、それで問題が無くなるわけではありません。中にはあれほど喜んだことが、新しい問題を生み出すもとになることも沢山あります。もともと、この人生に何一つ問題が無い人生などはあり得ないのでしょうから。

 

そこで住岡先生は「問題は常に内にあり」と言われる。内と言われるから、その反対の外ということがその裏に考えられている言葉です。つまり「問題は常に外にあり」ということがあるのです。例えば子供の問題で親の自分がいつも苦労させられていると思っている人があるとします。そうすれば、その親はいつも「あの子供さえ良くなれば」と考えるのが常のことでしょう。つまり、子供という外が良くなれば内なる自分が安心できると思い込んでいる。しかし、住岡先生は「内」と言われる。ということは、出ている現象は確かに子供の問題(外)というかたちで問題は出ているが、(内)つまり、そういうかたちで、子供の問題というかたちで親の自分が問われているのではなかったか、と我に帰っていく。それが「内」ということだと思います。

しかしこれが一番難しい。どうしても、子供の問題と考えてしまう。私達の考えはいつもそうなっている。いやそうでしかありえない。その私の姿勢がいつの間にか大切な子供を追い詰めてはいないか。子供の悲しみ、いたみに気づけない障害になっていないだろうか。しかし、これは親子の問題に限らずすべてのことに言えることだと思います。

 

「願海」2006年3月掲載

 

住岡夜晃―1895年(明治28年)広島に生まれ、1949年(昭和24年)広島で死去した。その54年の生涯は求道と教育のために捧げられた一生であった。

浄土真宗の教え2

​ 浄土真宗の教え 

 02 

「問題は常にあり、問題は内にあり」(2)

 

最近、テレビや新聞を賑わせている事件に、皆様よくご存知のとおり、ある一級建築士によるマンションやホテルの耐震データ偽造事件があります。そのうち次第に事件の真相が明らかになることでしょうが、この事件は単に一建築士による事件にとどまらず、むしろその背後に大きな構造的な問題があるようにも感じられます。

例えば、その設計士に国会で「自分が例え偽造していても検査機関がそれを見抜いていたら偽造は出来なかっただろう」と、自分の建築士としての罪は棚に上げて愚痴を言わせる、その偽造を見抜けなかった民間確認検査機関。しかも、その検査機関は「一級建築士がまさかそんな偽造はしないだろうと思っていた」とうそぶいている。ということは検査というが、要するに形式的なものなのか。そんなものに行政は任せて知らん顔なら行政の罪はもっと大きい。

そうした構造的な欠陥を利用して、いわゆる「安かろう悪かろう」という建物を次々建て消費者に売りつけて、大儲けをしている建築業界と販売業者。言いようのないいきどおりを感じますが、そうした偽装マンションやホテルの購入や建設に大金を費やした住民やオーナーにしてみれば、すべては初めから仕組まれたペテンに引っかかったようなものだと思う人もおられるだろう。考えると心が痛みます。

この事件が表に出たころある雑誌で、建築学を学生に教えておられる、ある大学の先生の言っておられる言葉が印象に残りました。先生は「長い間、建築は日本人の文化の象徴でした。京都や奈良にある古い寺院建築は言うまでもありませんが、そこらに見られる一般の民家でも美しい建物が多かった。そして、それらは地方のそんなに有名でもない大工の棟梁が精魂こめて造りました。戦前から最近まで飛騨地方(岐阜県北部)には『貧乏をしようと思えば大工の棟梁になれ』という言葉があったそうです。それは棟梁には『自分が死んでも自分の建てたこの家は残る。そして、さすがはあの棟梁が建てた家だ』と皆に言われたい。という、大工としての『誇り』がありました。だから、どうしても、建築中に依頼者に頼まれなくても『手出し』をしてまで良い家にしようと努力した。結果的には金は余り儲からなかったのでしょうね」「ところが、この頃は建築が単なる金儲けの手段になってしまった。儲かりさえすれば、なんでもするような風潮に流されて、建築家として一番大切な『誇り』を失っている。悲しいことです」と言っておられた。

しかし、これは建築家だけの問題ではないのでしょう。われわれ人間全部の問題だと感じました。「世の中がどうだ」とか「いまは総じてこんな時代だ」とか、そんな言葉をよく聞きますが、そうではなく、「一体お前はどうなりたいのか」「本当にそれでいいのか」と自分の一番深いところからはたらく叫びに耳を傾ける生き方が見失われるなら、このくらい悲しいことはありません。あらゆる事件の根本にこの問題があるように感じます。

「願海」2006年5月掲載

浄土真宗の教え3

​ 浄土真宗の教え 

 03 

「問題は常にあり、問題は内にあり」(3)

 

 先般、娘が嫁にいっている、東京のお寺のお母様が亡くなられました。私と前坊守はその通夜と本葬に参列させていただきました。多くの住職や坊守さま、ご門徒の皆さまが参列された葬儀がしめやかに営まれ、そして私達も火葬場まで行きました。お寺は新宿にありますが、そこから何台ものバスに分乗して町の中を随分走り、到着したのは住宅街の真ん中にある火葬場でした。曽つては田圃や畑の真ん中だったそうです。その火葬場は随分立派というか、むしろ豪華と言ったほうがいいような大きな施設でした。死体を焼く窯もズラッと沢山並び、天井には大きなシャンデリヤが輝く、まるで結婚式場のような華やかな雰囲気で、とても近親を失って深い悲しみにくれている遺族が、死者と人生最後のお別れをするにふさわしい場所とは思えませんでした。従業員(東京の火葬場の大部分は株式会社、つまり民間業者の経営とか)は皆、ホテルの結婚式場に勤めている人のような服装で、その応対もいかにもサービス本位のありかたで、落ち着かないものでした。しかも、一番驚いたのは死体を焼く窯には番号がふられていて、その番号に4番の無いことでした。病院などに4号室が無いということは知っています。4が死に通ずるからだとよく聞きます。病院は病気を治して健康になるために行くところですから、死を恐れるのは誰でもそうでしょう。だから4号室がない。勿論語呂合わせの迷信ですが、これは人情として分かります。しかし、火葬場はそうではありません。家族のまことを尽くしての看病と、どこまでも生きたいと願う病人、どうかして助けたいと全力を尽くされた医療関係者の努力の甲斐もなく亡くなられた。その死者が運ばれてきているのです。死を恐れるも恐れないも、そこに死の現実があります。そこに人生の実相があるのです。その現実を見ようとしない。死を嫌う人情に合わせようとする業者のサービス精神。それをそのまま受け入れている都会人。言いようの無い淋しさを感じました。坊守様を失われて沈んでおられる住職も、こうしたことに象徴される、ただ明るさだけを追い求める、根のない浮き草のような東京の文化のひずみについてしみじみと話しておられました。かつて日本人は釈尊の教えの根本である、諸行無生という言葉を知らぬものはありませんでした。「生あるものは必ず死に帰す。盛んなる者は必ず衰える」その教えによって悲しい中にも深い人生の実相にうなずきました。それが本当の智慧です。見せ掛けの明るさはごまかしなのです。

                          「願海」2006年7月掲載

​ 浄土真宗の教え 

 04 

「問題は常にあり、問題は内にあり」(4)

 

この頃、娘が嫁にいっている東京の専福寺のお父さんから一冊の書物をいただきました。お父さんの名前は二階堂行邦といわれますが、二階堂さんが本山の高倉会館で法話をされたものをまとめたもので、本山の出版部から「自分が自分になる」という題名で出版されたものでした。その中に、こんなことが語られていました。

大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)というお経の中に「佛は、十方衆生(じっぽう、しゅじょうーあらゆる人間)のために、正しいみ法(のり)を説いて、衆生一人一人が、自分の人生に安らかに、一人で立って生きる人間にしたいと、はたらいておられる」と書かれている。そこで、その中の「正しいみ法」というのは言うまでもなく仏法、すなわち南無阿弥陀仏の教えであるが、その教えによって「安らかに一人で立つ」(各各安立-かくかく、あんりゅう)というのは、どうゆうことであろうかという問いを自ら立てて、それを明らかにするために、評論家の芹沢俊介さんの話が紹介されています。

芹沢さんは青少年の犯罪の問題をとりあげて、そこでイノセンスということを言われている。イノセンスというのは英語で、通常は無罪とか潔白、責任がない、というような意味に使われる言葉だそうですが、芹沢さんは「強制的贈与」という意味に使い、それは、他人から、また親から強制的にはじめから与えられた贈与、贈り物だと。つまり、よく問題をおこす青少年の心に深い闇がある。そのもとをおさえてみるとこのイノセンスがある。つまり、極端に言えば「何で頼みもしないのに、こんな俺を生んだのだ」と親に文句を言う。こうして与えられている身の事実に安立できないでいる。「ようこそ私を人間に生んでくださってありがとう。私はあなたがたの子供に生まれてよかった」と子供が喜んでくれれば、親はどんなに嬉しいか知れない。しかし、子供に「頼みもしないのに何で俺を生んだか」と言われれば、親はどんなにか悲しいことでしょう。しかし、そうしか言えぬ子供も本当は悲しいのです。こうゆう問題として芹沢さんはイノセンスということをいっておられる、と二階堂さんは述べられて、「安立」というのは、現にこうして生まれてきて、生かされてありながら、それが受け取れない。身の事実に安立できないでいる。しかし、それを乗り越えて、それが自分の責任だと、与えられたものをも自分の責任として生きることになるときイノセンスが壊れる。仏教では宿業としてわが身をうけとる。それが教えによって安立するということであると二階堂さんは言っておられます。その本を読み本当にそうだと思いました。「自分が自分になる」という書物の題のもっている意味はそうゆうことを表しているのでしょう。そして、これこそが宗教問題なのだと気づかされました。

こうゆう言葉は若い青少年の口から聞かされるものですが、しかし、その人たちも大人になって、社会に出て、その人の立場が与えられ、それなりな自信をもって生きはじめると、そのような矛盾が次第になくなります。自分の仕事とか、責任のある立場に立つようになると、自分なりに、世間のお役にたっているとか、困難な仕事を成し遂げる喜びを感ずるようになるとかして、生き甲斐のようなものが出てきますから、一応青年時代のイノセンスは超えられます。しかし、それで本当の解決になっているのか、そこは大きな問題ではないでしょうか。

と言いますのは、例えば、ある人が社会の一員として活躍している間も、都合よく物事が動いているときは、夢中になって働く。そして、その仕事に自信がつくと、いつのまにかそれはみな自分の努力のせいだと考えるようになってくる。しかし、その反対に都合の悪いことが続き仕事がうまく行かなくなると、こうなったのは他人の誰かのせいだと考えてしまうところがあるような気がします。つまり、どんなことがおきても、一切は自分の受けていかねばならぬこととして、引き受けられるかといえば、そんなに簡単ではない。どうかすると、何かのたたりと考えたり、運命論に流れたり、それを説いて人を迷わす邪教もある。結局愚痴が残るのです。つまり、不足・不満が残っていて、それが一生尾を引いてゆく。しかし、そうなっている自分になかなか気づけない。それは私たちの心の深いところに、自分の人生を我執という、つまり、とらわれた心で握っているありかたに原因があると教えてくださるのが仏さまの教えなのだと気づかされます。

                        「願海」2006年9月掲載

浄土真宗の教え4
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