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​正信偈に聞く

 39-

​平成23年9月25日

 みなさん今日は、

親鸞聖人がお作りになった正信偈は前半分と後半分に大きく分かれます。

前半分は「依経段・えきょうだん」といって、浄土三部経、特に『大無量寿経』を中心にして、その教えを基にして本願念仏のおいわれを顯かになさったところです。それで経に依るという意味で「依経段」と言っております。

それに対して、後半分は「依釈段・えしゃくだん」といって、釈に依って本願念仏のおいわれを顕らかにしてありますから依釈段と言うわけです。

 

依釈段には、お経の心を顕かになさった高僧が親鸞聖人によって七人選んでおられます。

インドに龍樹菩薩と天親菩薩、そして中国に来て曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、そして日本では源信僧都・源空(法然)上人の七人をあげて七高僧といっておられます。

依釈段には、それぞれお釈迦迦様の三部経、特に『大無量寿経』を依りどころにして、それぞれお念仏のおいわれを顕かにしてくださっている七高僧の念仏の歴史があるわけです。その歴史を述べてあるのが、正信偈の後半分の依釈段になるわけです。そして今は、天親菩薩の教えについて勉強をしているわけです。

 

天親菩薩

天親菩薩、論を造りて説かく、

(意訳)天親菩薩、浄土論を造って、お説きになられた。

無碍光如来に帰命したてまつる。

私は、無碍光如来に帰命いたします、と。

修多羅に依って真実を顕らかにして、

「大無量寿経」に依って仏の真実を顕らかにして、

横超の大誓願を光闡す。

横跳びに往生させる偉大な誓願を明かにされた。

広く本願力の回向に由って、

阿弥陀仏が衆生に差し向けられた本願の力に広くもとづいて、

群生を度せんがために、一心を彰す。

一切の衆生を救うために、一心に帰命することを教えられた。

 

天親菩薩につきましては、

 

  • 「天親」、世親ともいう。龍樹より二百年後、西暦四世紀初めに北インドのバラモンの家に生まれた。はじめ小乗の学をおさめたが、兄無着の説得によって大乗に帰したといわれる。

龍樹と同じく「千部の論主」といわれ、すこぶる著作が多い。「唯識三十頌「唯識二十論二十論」「摂大乗論釈」「無量寿経優婆提舎願生偈」(浄土論)などがある。龍樹が中観仏教の大成者とされるのに対して、天親は瑜伽唯識学の大成者といわれる。

 

天親菩薩は世親菩薩とも言うわけですが、これはインドの言葉で「バスバンズ」という名前なのですが、中国で翻訳する時に旧訳は「天観」とし、新訳は「世親」と訳したのです。

龍樹菩薩は、お釈迦様が亡くなって七百年して、南インドに出てきた人です。それから二百年遅れて、北インドに出て来た人が天親(世報)菩薩ですから、天親菩薩はお釈迦様から言いますと、お釈迦様が亡くなられて九百年も経って、インドに出て来た方です。インド仏教の学者としては、これは真宗に限りません、仏教は全て龍樹菩薩と天親菩薩を、それぞれの宗派が上げておられるわけです。

親鸞聖人は他の宗派と違い、お念仏のおいわれ、南無阿弥陀仏のおいわれを顕かにしてくださった方として龍樹菩薩を上げておられます。龍樹菩薩は、仏教を難行道と易行道とに分けておられます。難行道というのは、自分の足で陸地を歩いて目的地に行こうとする仏教。それに対して易行道というのは、船に乗って目的地に行こうとする仏教です。例えていいますと、船というのは如来の本願のはたらきです。

その本願の真を信ずる信仏の因縁といわれておるわけですが、信仏の因縁によって、易々と浄土に往生することができる、浄土に往生すれば、仏の悟りを得ることができるということを龍樹菩薩は教えておられます。

それに対して、天親菩薩は浄土ということを言われるわけです。龍樹菩薩は浄土ということは仰らないのです。阿弥陀仏の本願の真によって、それは易行道によってお悟りを得ることができるのだと仰っておられるのですが、浄土ということを仰ったのは、天親菩薩が初めてです。

天親菩薩が『大無量寿経』をお読みになって、そして大経のお釈迦様の精神というものを顕かになさった。それが『浄土論』という書物です。その浄土論では「世尊我一心・帰命尽十方・無碍光如来・願生安楽国」と仰るわけです。その事について前回、詳しく申し上げました。

 

世尊我一心・帰命尽十方・無碍光如来・願生安楽国

世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。

 

こういう言葉から浄土論は始まっているわけです。ですから大無量寿経を説かれたのはお釈迦様ですから、そのお釈迦様に呼びかけられるわけです。「世尊」と。

大経を何度もお読みになって、「解りました」と。「お釈迦様(世尊)、あなたの仰せの通り私は一心に、十方を尽くして障り無き(無碍)光の如来に帰命して、安楽国に生まれんと願います、と。だから分かり易く申しますと、南無阿弥陀仏という意味です。

私たちは六字のみ名を南無阿弥陀仏と頂いておるわけです。

南無、阿弥陀仏というのはインドの言葉です。

「ナマス(南無)「アミタバー(光)・アミクユス(寿)」(阿弥陀)で、南無阿弥陀仏です。

 

漢字は、例えば「南無」と書いて、南は「ナン」という音と、「ミナミ」という意味があるわけです。A・B・Cには音だけで意味はありません。これは符号と同じです。

ところが中国の漢字は、無は「ム」と発音しますし、「ナシ」という意味もあるわけです。

 

しかしそれだけではない、たくさんの意味があるわけですから、こういうのは中国の独特の文化から生まれた文字でございますね。それを日本は貰ってきて、日本には日本語は昔からありますけれども、それを表記するのに漢字を使って表記したのです。

ところが漢字というのは「音」もいろいろ有りますし「意味」まであるものですから、非常に便利が悪い。ですから日本人が工夫して「平カナ」を造りました。

安(あ)以(い)宇(ろ)衣(え)於(お)。これをくずせば(  )内の字になるわけです。

そうするとこれは音だけを表します。英語と同じです。ところが今度は「カタカナ」まで作りました。「カタカナ」の「カタ」というのは不完全という意味です。「片方」という意味だそうです。

阿(ア)伊(イ)宇(ウ)江(工)於(才)。つまり片方だけで作った文字です。

不完全な文字、しかしこれをカナ付けに使います。

現在は、外国語を表記する時にカタカナを使います。これは日本人の工夫です。

こういう意味でいうたら、私はよく言うのですけれども、「日本人は、発明は下手ばってん改良は上手」と言うのです。日本人が発明したのは人力事だけといわれますが、とにかくカナを作った。だから「ナマス」です。それを中国の学者はカナがないですから、「南(みなみ)無(なし)」音で訳したのです。だからこの字に意味はありません。意味は「帰命」です。

ですから親鸞聖人は両方使って「帰命無量寿如来・南無不可思議光」と書いておられるわけです。そして「阿弥陀」の意味を親鸞聖人は「無量寿如来」そして「不可思議光」といっておられます。

量り無き(いのち)寿と量り無き光という形で阿弥陀を表現して正信偈をお書きになっています。

南無は音訳で意味はありません。意味は帰命です、これが意訳です。

南無阿弥陀仏は音訳なのです。ですから南無阿弥陀仏というのは外国語なのです。

「ナマスアミターバー」

インドの人は挨拶するのに手を合わせて「ナマステー」と言われるそうですね。

テーは「あなた」という意味だそうですね。ナマスというのは尊敬するという意味です。

インドの人は手を合わせて「ナマステー」あなたを尊敬しますと言うて挨拶されるわけです。

日本人は「今日は」といいますけれども、国によって違うわけです。

南無阿弥陀仏の南無がこの「ナマス」に当たるのですが、たただ尊敬という事だけでなくて、アミタ―に自分の一切の計らいや全てのものを捨てて、それに依るという意味で使われています。それが「帰命」という意味です。

浄土宗の方は「命に帰る」という言い方があるようです。大谷派の本山では「今いのちがあなたを生きている」という標語をつくりましたけれども、あの「いのち」でもめていますけれども、親鸞聖人は「勅命」といっておられます。つげるという意味で、われに依れと如来は呼びかけていらつしやる。それに帰する。一切の計らいを捨てて依るという意味で帰命と、親鸞聖人は使っておられます。

「帰命の三義」という所を見て下さい。

 

一、帰投 生命を仏に投げ出す。

帰命の三義 二、帰順 命は教命。教え、命令として語られる教えの言葉に従う。

三、還帰 命は生命、人間の本来の命の世界に還る。

 

「帰投」は生命を仏に投げ出す。礼拝は手を合わせます。日本の神道でも手を合わせます。

日本の神道が手を合わせるのは祈願です。祈っているわけです。良いことがありますようにと、悪い事が来ませんようにと、神道の場合は祈っておるわけです。日本人は、ほとんどそういう形で手を合わせていますよ。

ところが仏教で礼拝というのは違うのです。

帰投というのは五体投地と言います。テレビで見ますとチベット仏教では巡礼をなさる時に歩きながら五体を投げる、五体投地なさる。

同じ仏教ですが、禅宗は仏教の基本的なものが残っていますから、だからあまりきれいな衣は身につけなさならいし袈裟などもインドの人が着ておられるようなものを着ておられます。

禅宗の人は礼拝をなさるとき身を投げられます。我々は手を合わせるだけです。

私は藤解照海先生の所に二十歳の時に行きましたけれども、その時にそういうことをさせられましたね。大石先生はそうなさっていました。

私は大谷派の僧侶になりましたから、大谷派はそういうことをしませんから、手を合わせて南無阿弥陀仏と言っておりますけれども、五体投地は手の平を上にしてお釈迦様の足を頂くという姿勢だそうですね。仏様の足を頂く、だから祈りじゃないのです。教えの前に自分の全体を投げて依るという意味ですから教えが命なのです。

金や物が命ではないのです。それは無常なものです。無常なものは本当に頼りになるものではないでしょう。

私の身体ぐらい私にとって大事なものはないですけれども、それを投げて依れる真。それが教えですから、それを現したものが五体投地です。

南無という意味は、そういう意味があります。だから阿弥陀仏に南無する。阿弥陀という意味は光明無量・寿命無量です。つまり光量り無し、寿量り無しです。

これが阿弥陀の中身です。だから「帰命無量寿如来・南無不可思議光」です。

正信偈 39ー2

​正信偈に聞く

 39-2 

​平成23年9月25日

天親菩薩は、お釈迦様、私は一心に尽十方無量寿如来に帰命したてまつると仰るわけです。

「一心」ということは二心ないという意味です。計らいはないのです。一心に尽十方無碍光如来となっています。阿弥陀のことを、十方を尽くして障りなき(無碍)光の如来となっています。それが阿弥陀という意味です。阿弥陀に帰命して安楽国に生まれんと願ずと、こういうように先ず仰るわけです。

ですから南無阿弥陀仏というのは、言いなおせば「帰命尽十方無碍光如来」という意味です。これを十字名号といいます。

南無阿弥陀仏は、外国語をそのまま言っておるわけですから解らんわけです。とにかく南無阿弥陀仏と言っておるから南無阿弥陀仏と言っておるわけです。

ところが南無阿弥陀仏ということは帰命尽十方無碍光如来ということだと。

「十方」というのは東西南北で四方です。それに四隅で八方でしょう。それに上と下を入れるから十方というのです。だからあらゆる方向を現しておるのが十方です。

世尊、私は一心にあなたの仰せの通り、十方を尽くして降り無き(無碍)光の如来に帰命する。そして阿弥陀仏の浄土(安楽国)に生まれんと願います、と。

 

天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。

修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。

広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す。

 

これが天親菩薩のところの前半分になるわけです。

修多羅というのはお経という意味です。

 

④「修多羅」 スートラ。縦糸。「経」(縦糸)。経典。ここでは浄土三部経、とくに「大無量寿経」をさす。

天親菩薩が論を造ってお説きになりました。無碍光如来に帰命したてまつる。それは修多羅に依ってです。つまり大無量寿経によって現される真実は何か、そして真実を顕して横超の大誓願を光闡すと。

 

意訳では「天親菩薩は、浄土論を造って、お説きになられた。

私は、無碍光如来に帰命いたします、と。

大無量寿経に依って仏の真実を顕らかにして、横跳びに往生させる偉大な誓願を明らかにされた、

阿弥陀仏が衆生に差し向けられた本願の力に広くもとづいて、一切の衆生を救うために、一心に帰命することを教えられた。

 

「横跳びに」というのは竪跳びでないということです。縦というのは次第順序を踏むということです。横超というのは横さまに越えるというのですから次第順序を踏まないということです。

天親菩薩ご自身が、みんなのためにと思われたのかは判りませんが「世尊我一心・帰命尽十方無碍光如来」と仰ったということは、私たちの救われる道が天親菩薩に依って顕かになったという意味です。

もしも天親菩薩が大無量寿経をお読みになって「世尊我一心・帰命尽十方・無碍光如来・願生安楽国」と言っておってくださらなかったならば、私たちは大無量寿経でお釈迦様が顕らかになさったことは解らなかったであろう。こういうことを親鸞聖人は仰って、「群生を度せんがために一心を彰す」と仰っておられます。

「度」というのは渡すという意味です。救うと言う意味です。

衆生を救う為に一心に帰命することを教えられた。

「群生を度せんがために」と言う中に親鸞聖人も入っておられます。親鸞聖人はいつもそうです。「衆生」といったときに自分は抜きになっているのではないのです。

だから親鸞聖人から言えば、「親鸞一人がためなりけり」と言っておられます。

「群生を度せんがために一心を顕す」「世尊我一心」と仰ったという意味です。

これが天親菩薩に対する親鸞聖人の御恩なのですね。大きなお陰なのです。

 

先月は、清沢先生の絶対他力の大道についてお話をしました。

絶対他力の大道で清沢先生が

 

我、他力の救済を念ずるときは、わが世に処するの道開け我他力の救済を忘れるときは、わが世に処するの道閉づ。

 

つまり「世尊我一心」です。それを清沢先生は無限他力と言っておられます。有限の相対ではない、絶対他力に依っていくということを仰ったんだということを前回特に申し上げました。

私たちにとって天親菩薩が言われる「世尊我一心・帰命尽十万・無碍光如来」ということが私たちに起こりませんと、私たちの本当の人生の解決はありません。

この世の中で思うようになって助かると思っていたら思うようになることは一つもありません。

こちらは、いつも金が無いから金があったらいいと思いますが、金を持っている人は持っている人で大変だそうですね。

今、円高になっているのは投機すじのお金が動いておるからだそうですね。金が世界中に余っている。余っていて、その金をどこに持っていっていいか判らない。そいすると日本が必ずしも経済的に確かではないけれども、アメリカやヨーロッパよりは確かなのだそうです。だから今は、日本の円を買っておこうという事で円が高くなっているそうです。

アメリカも金融緩和をしましたし、ヨーロッパも経済的に困って金融緩和をしましたし、日本は早くからしましたから金が余っているそうです。その金をどうするかということですから、これはお金のある人はある人で苦労しているということです。

北九州に伊藤元という先生が居られます。御門徒の所に朝早く月参りに行くそうです。そこの人がお参りもせずに新聞を広げて見ておる。先生ははっきりものを言う人ですから、「参らんなら」と言ったそうですよ。そしたら「それどころじゃない」株が上がった下がったと言って心配しておると言ってましたよ。

私は新聞広げて株なんか見たこともないですよ。ところが体を持っている人は大変でしょうね。有る者は有る者で大変、無い者は無い者で苦労が無いことはない。つまり相対の世界という意味ですね。相対の世界に真の救いはない。

絶対という阿弥陀の世界に眼を開く意外に本当の安心はないのだということを教えられておるわけです。そういうことを清沢先生は明確に仰っておられるということを申します。

前置きが長くなりました。これから後半分に入ります。

 

帰入功德大宝海(功德大宝海に帰入すれば、)

仏の功徳という広大な宝の海に帰入するな

必獲入大会衆数(必ず大会衆の数に入ることを獲)

必ず浄土にいる人々の仲間に入れていただくことができる、と。

得至蓮華蔵世界(蓮華蔵世界に至ることを得れば、)

蓮華蔵世界、すなわち極楽浄土に至ることができれば、

即証真如法性身(すなわち真如法性の身を証せしむ。)

ただちに「真実そのもの」という身になることが証明される。

遊煩悩林現神通(煩悩の林に遊びて神通を現じ、)

煩悩の盛んな世界にいながら、自由に不思議なはたらきを現わし、

入生死園示応化(生死の園に入り、応化を示す)

迷いの世界に入り込んで、人々を教化する、といわれている。

 

これは何を言ってあるかといいますと、纏めて見ますと、この天観菩薩のところを見てください。五念門・五功徳門と書いてあります。

 

◎この浄土論は「無量寿経優婆提舎願生偈」と題されているように、無量寿経に関する論釈の意味をもった願生の讃歌である。

前半は偈頌の形式で無量寿経を総説し、(総説文)順生浄土のいつわりなき心を表白して世尊に帰敬の意を表し、次に三部経によってこの偈頌をつくる旨をのべ、以下ひろく浄土の荘厳を(二十九種荘厳)観察して一心の展開をのべ、終わりに一切衆生とともに願生せんことをあらわしてある。

 

浄土論というのは、偈頌の部分が前半分になります。

 

◎後半はその偈頌に含まれている問題を明らかにする散文から成り、(解義分)偈が願生の一心の体を説くのにたいして、後半は誕生のすがたである「行」をかえりみて、五つの宗教的実践(五念門の行)をもって、偈頌の深い意義を解説してある。全体を貫くのは仏に二心なく帰依した一心であるから、親鸞型人は「一心の華文」とたたえ、真宗では浄土三部経とともに、三経一論と称し尊重せられる。

 

つまり「浄土論」に

 

世尊我一心・帰命尽十方・無碍光如来・願生安楽国・

世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。

我依修多羅・真実功徳相・説願偈総持・与仏教相応

われ修多羅、真実功徳の相に依って、願解を説いて総持して、仏教と相応す。

 

と。次に、お浄土というところはどういうところかということを詳しく書いてあるのです。

それが十七種書いてあるわけです。

 

(仏国土荘厳十七種)

観彼世界相・勝過三界道……(中省略)

かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。…

故我願生彼・阿弥陀仏国

かるがゆえに我、願わくは、かの阿弥陀仏国に生まれん。

 

つまりお浄土のすがた(相)を十七通りに書いてあるのです。

仏国土を顕すのが在厳です。在厳というのは飾りということです。それが十七種あります。

ところが初めに「彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。」つまりお浄土というのは三界の道に超え勝れている。三界というのは我々の世界ですけれども、

 

欲界  損得・物の価値をつけて見る世界

三界  色界  芸術的に見る世界

無色界 哲学的に見る世界

 

これは迷いの世界です。浄土はそれを突き抜けておるということです。

欲の世界というのは、例えば、ある家に行ったら、きれいな皿に美しいリンゴが盛ってあって、それを見て「欲界」は旨かろう、高かろう、これは欲の世界です。

ところが「色界」というのは芸術的な世界という意味です。ですから美しい、だから絵を画く人はリンゴを画きますもんね。そういう時は値段や欲で言っているわけではない。何かそういうものを超えて美しいと、だから芸術的な世界。「無色界」というのは哲学的な世界なのです。こんなものがこの地上に現れるというのは生命の不思議だと。そういうことを考える世界が無色界と言います。

 

どちらにしたところで人間の迷いの世界です。それを超えたところがお浄土と言っておるのが「三界の道に勝過せり」と。そうして十七通りお浄土のことについて書いてあります。

次が、(仏在厳八種)と書いてあります。お浄土には仏様がおられる。その仏様のことを讃めてある、それが八通りです。

 

無量大宝王・微妙浄花台(無量大宝、微妙の浄花台にいます。)

 

仏様は蓮華の花の上に座っておられる。

 

相好光一尋・色像超群生(相好の光一尋なり、色像、群生に超えたまえり。)

 

そのお姿は例えようのないぐらい美しくて、例えどのような器量のいい人であろうと、どんな立派な身体をもった人がいても、それを超え勝れたお姿をしておられるのだということを

仏荘厳で言っておられるわけです。そして、

 

観仏本願力・遇無空過者(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし。)

能令連満足・功徳大法海(能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。)

 

と。次に、お浄土には菩薩様がおられる。だから菩薩様の徳を讃めておられるわけです。

菩薩荘厳というのが四つあります。

 

(菩薩荘厳四種)

安楽国清浄・常転無垢輪(安楽国は清浄にして、常に無垢の輪を転ず。)

我願皆往生・示仏法如仏(我願わくはみな往生して、仏法を示すこと仏のごとくせんと。)

 

お釈迦様は、仏様と同じような仕事をしたいというお姿をしておられる。

そして最後に回向文です。

 

(回向文)

普共諸衆生・往生安楽国(普くもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん。)

 

つまり我一人の問題ではない。全ての人々と共に救われたいというのが「回向文」です。ここまでが浄土論です。

仏国土荘厳十七種・仏荘厳八種・菩薩荘厳四種・合わせて「二十九種荘厳」といいます。

二十九通りの荘厳が浄土論に書かれています。それが偈文です。

 

後の半分は偈文でなくて普通の文章になっているのです。その部分はここには書いておりません。そこには何が説かれているかと申しますと、「五念門と五功徳門」が説かれているのです。「五念門」が因です。五念門に依って、それぞれ果がある。

一つ一つについて因と果があります。

 

五念門(因)      五功徳門(果)

礼拝門(らいはいもん)  近門(ごんもん)          念仏のすがた

自利  讃嘆門(さんだんもん)  大会衆門(だいえしゅうもん)    念仏の言葉

作願門(さがんもん)   宅門(たくもん)          念仏のこころ

観察門(かんさつもん)  屋門(おくもん)          念仏の智慧

利他  回向門(えこうもん)   園林遊戯地門(おんりんゆげじもん) 念仏による生活感情

 

だから「門」というのは教えです。

礼拝門が近門ですから礼拝することによって浄土に近づくのです。

礼拝というのは帰命ということです。唯、祈って拝むという意味ではありません。

本当に仏の真に依り、浄土に生まれたいと、その仏に帰命する。そういうものが近門ですから、近門は浄土に入る入り口です。礼拝のない者にお浄土は開けません。

何か自分がいい目にあおうとして礼拝するのではありません。礼拝・帰命が入り口です。

そいて讃嘆門(さんだんもん)、讃めることによって大会衆門(だいえしゅうもん)、同じように浄土を求める人達と遇える世界という意味です。

そして、そうすることによって、大会衆ですから多くの人々と遇える。

お念仏する人ばつかりでも本当はないのですけれども、お念仏する者によって、私は一人ではない、多くの人々が念仏を喜んでおられたのだということに気付くということです。

 04 

正信偈39—3

​正信偈に聞く

 39-3 

​平成23年9月25日

奉仕団で本山に行かれた人がそういうことを言っておられました。

ずいぶん前ですけれども、御木山の本堂でたくさんの人々と一緒に正信偈のお勤めをされたそうです。だから奉仕団に行く前に正信偈のお勤めを一生懸命練習して行かれたのでしょう。

たくさんの人とご本山で一緒に正信供のお勧めができて本当に嬉しかった。あのとき、自分だけお勤めできずに黙っていたらどんなに淋しい思いをしたことだろうと思った。だから一緒にお勤めして嬉しかった。そして、少し時間があったものですから、貴方はどこから来ま

したかと聞いた。そしたら北海道の人もいた、北陸の人もいた。そのとき自分は本当に驚いた。おそらく、この人達に二度と会うことはないだろう。そういう人たちと、こうして一緒に親鸞聖人の前でお勤めができた。本当に自分は、こういう世界があることを知初めてしったということを仰って、奉仕団に行ったことを歓ばれたということがありました。

「大会衆門」です。二度と会えないかもしれない人と一つ世界を持つということですからね。

次に例のお勧めをするということは讃嘆なのです。「帰命無量寿如来」ということは、仏様の徳を讃めているわけです。だからそこに同じようにご縁のある人が居られたのだという、そういう意味です。大会衆というのは。

次に、お浄土に生まれたいと願うということは「作願門」です。作願門は「宅門」と書いてあります。宅門というのは屋敷です。

例えば、この光善寺の境内が宅です。そして観察門が「屋門」になるのです。屋というのはこの家の中です。だから浄土を願うならば、ちょうどお浄土の屋敷に入ったと同じです。観察門に入った者は本堂の真ん中に坐るという意味です。

だから、礼拝は近門、浄土に近づく。讃爽は多くの人々と出会う、大会衆門。次に宅門というのは本当に仏法の歓びというものが見えてくるということです。

これを宮城顗という先生が言っておられるのですが、「礼拝というのは単なる頭を下げるということでなくて、どこまでも必ず帰命でなければならない。」と。

さきほど五体投地ということも言いましたけれども、いわゆる「南無」です。

「帰命」ということです。如来の真に依っていくという、深い私たちの心を顕している。

私たちはなるだけ仏教の知識を多く得たがいいですよ。なにも無いよりも得たがいいです。

そして知識を得ねばなりません。しかしそれによって自分を固めていく方向ではないのです。

それによってむしろ自分を固めているものが破られていく方向なのです。

破られていくということは、如何に自分というものがかかたくなな我執の強い、そして自分の考えを絶対化しておる自分だということに気付かずに来た。だから相手が自分の思うようになれば、その人は善い人、思うようにならねば悪い人。家族でもそうです。ほんとうに力を合わせて生きていかねばならんのは判っておる。判っておるけれども都合の良いときは善い人、都合の悪いときはやっぱりやつかいです。

「なんで私ばかり苦労せんならんやろうか」と思う心を、仏教は示して言ってあるわけです。

だから都合が善くなることが幸せで、思うようにならんことが不幸せという考えではないのです。そういう形でしか人生が受け取れんものを迷いと教えられておるわけです。

それを清沢先生の言葉で言えば、

 

請うなかれ、求むるなかれ、汝、何の不足かある。若し不足ありと思わばこれ汝の不信にあらずや、如来は汝がために必要なるものを賦与したるにあらずや。

 

つまり、お前は本当にご縁に遇わんならんものに遇っているのですよ。遇わんでもいいものが遇うているのではないですよ。ところが貴方は、都合の良い時は善い人、都合の悪いときは、「なんでこんな日にあわんならんのだろうか」というような心が働くでしょう。それがいかんということでなくて、それがあなただと。それが凡夫のすがた(相)なの」だと。しかもそれは努力したり少々我慢したぐらいで間に合わん深い煩悩を抱えておる。だからその者が、自分を磨いたり、きれいにして、そして救われていくということは不可能です。だからそういう者をそういう者と見透して阿弥陀仏は浄土を建立され、そこに私たちを生まれさせたいと、浄土に生まれれば仏に成るのです。そういう浄土を建立された。だからそこに阿弥陀仏が、私をそういう者と見透して浄土を建立された心を頂くという意味です。だから、

 

弥陀五劫思惟の顔をよくよく安ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。

 

どういう一人か、「さればそくばくの業をもちける身」と仰っています。「そくばく」というのは数限りない、数え切れないという意味です。

 

さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

 

と、仰っています。それは親鸞聖人の述懐です。

だから帰命ということによって、むしろ自分が頑張っていたものが破れていく。そこで多くの人と出会うわけです。その時に頑張っている人とも出会うわけです。そしてその姿は、昨日までの私であったと、もしも私が仏の教えに遇っていなかったならば、ああなるより他になかった。そのことをあの人は見せてくださっている。

しかし、この人も南無河弥陀仏に遇うてくだされば、私がまだはっきり判っているわけではないけれど、教えに遇ったことの幸せを思う時に、この人も教えに遇うてくださればと思う。

そうすると「大会衆」というのは、いろんな人と遇うわけです。

つまり気持ちの合うものだけが遇うのではないのです。いろんな人と遇うわけです。それが教えを基にして遇う、つまり浄土を背景にして遇う世界です。

だから礼拝というのは単なる手を合わせるというような意味ではない。どこまでも如来の真に依っていく、徹底して依っていく。だから自分を固めていく方向ではなくて、むしろ自分が破られていく方向が礼拝門なのです。

 

「讃嘆」ということは讃めるということです。

だから「帰命尽十方無碍光如来」です。十方を尽くして、障りなき(無碍)光の仏に帰命するわけです。その時に、有碍でしかない私は、見れば見るものに碍わられ、聞けば聞くものに碍われることしかない私です。そういう私を私と照らしだしてくださる如来が「尽十方無碍光如来」です。

これは、前回お話したと思いますけれども、九州大谷の学長を以前なさっていた蓬茨祖運という先生がおられました。その先生が、尽十方無碍光と言えば、十方に障りない如来様の光がどこまでもいきわたっておるというように考えるわけですけれども、それは嘘ではない。

しかしそうでなくて、私のような愚かな者の中にまではたらいておってくださったという喜びだと。なぜ私が愚かかといったら、凡夫というのは、頭が良い悪いとは関係がないのです。

「善悪の凡夫」というでしょう。

凡夫は善人もおるわけです。善人悪人です。しかしこれは相対の世界です。「善悪の凡夫」なのです。どこまでも自己にこだわる心を離れきれない凡夫です。だから常に障られるわけです。それを迷いと破ってくださる大きなはたらき、それを光に例えてあるわけです。

光は闇を破るはたらきです。闇と言って何処かにある闇ではないのです。私の心の中にどこまでもはたらいておる闇です。しかもそれは淡然とした闇ではありません。毎日の日暮の中にある闇です。それが危機です。

私の危機はいつもある。何かものを見たときから危機がある。その人が私に気に入った人ならばすぐに機嫌をとってくつついて来る。これも危ない。それかといって私を気に入らなければ拒否反応を起こす。それは有碍の世界です。

仲良くしていればいいというわけでもない。仲良くしているということの後ろには仲が悪いということが引っ付いているわけですから。

親子でもそうですから。だからそういう闇というのは、私がいつも危機を持っている。

朝、覚めたときから夜寝るまで判りません。危機を持っておる。縁に依ってはたらくわけです。

 

さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし。

 

何が出てくるか判りません。

がいつも表面にでるとは限らない。相手を悪く言ったり喧嘩をしたり、そういうことはなかなか大変です。そうじゃなくて、ちょっとした心の動きの中にも、自分を絶対化し相手を批判する、そうでしかない私です。それが凡夫という意味です。

それを照らしてくださる、それが教えです、それが光です、闇を破る無碍光如来です。こういう意味でしょう。だからそういうはたらきを讃める。尽十方無碍光如来と讃めるわけです。

それが讃嘆門。

そのことによって、一つの人生の方向が見えてくるのです。自分を絶対化し相手を批判しかない私です。だから何十年やっていても同じですから、それが破られて南無阿弥陀仏という浄土へ向かっての歩みが始まるということです。

そして「作願門」というのは、いよいよ浄土に生まれたいと願うということです。

テレビの放送劇である老婆が言うので

 

子育ての 終わりし我に なに残る、

 

人生で一番大切で、また一番大変なのは子育てでしょう。みんな努力しているのですよ。努力しないで世の中生きられないですよ。

そして子育てが終わったというわけでしょう。そして気がついてみたら、

 

孫は子のもの 子は人のもの

 

孫・孫言っているけど、所詮嫁のもの。そして息子も嫁のもの。そして後に何が残ったかといえば、がたのきた身体と、少々ぼけの出てきた頭と、向こうに棺桶がちらちらしておる。

だけど死にたくはない。そしたら、私の人生はいったい何だったのかと思う。

しかし、必ず凡夫の世界は、そこに来るのだということです。

しかしそのこと全部あげて、「あぁこのこと一つに遇わして頂くためのご縁だった」と。

「このこと一つ」というのが仏法です。そうなれば、そこに救いがある。

私等は若いときに、本当は聞いて判れば一番いいのですが、若いときは、仏教はなかなか判らないですよ。なぜかというたら、やってみなければね判らないのです。やってみて思い知らされたときに、ふっと気付かされる。そしたら私の人生というのは何だろう、と。

そのとき「このこと一つ」というものが見えてくればいいのですが、それが判らねば、「空過」です。空しく過ぐると。

ところが親鸞聖人は空しく終わらないと仰っておられるわけです。

 

観仏本願力・遇無空過者 仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし。

能令速満足・功徳大宝海 能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。

 

親鸞聖人が、浄土論の中でも特にこの言葉を大事になさっておられます。

親鸞聖人の御絵像の上に「讃」が書いてあって、この言葉が書いてあります。

親鸞聖人のご生涯は何を願らかにしようとなさったのかということを表している。そして聖人はこの言葉を天親和讃に、

 

本願力に遇いぬれば 空しくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みにみちて 煩悩の濁水へだてなし

 

と述べていらっしゃいます。

先ほど話しました二十九種荘厳の中の仏荘厳八種目にこの言葉が出てきます。そしてこれは次の菩薩荘厳とつながっているのです。

それを親鸞聖人の御絵像には必ず「讃」として書いてあるのです。

浄土に生まれるということが人生の根本問題にならなかったならば、私の人生は、結局は空しく終わりますよと言ってあるわけです。そして次に、

観察門です。観察はお浄土のことですが、本願の真を常に頂いて生きていくということです。これは屋門ですから、浄土の真ん中に座っているということですが、私たちの日暮は、浄土の真ん中に座っている形でしょうね。だから親鸞聖人は、

 

弥陀五劫思惟の願をよくよく安ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。

さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと、

 

親鸞聖人はいつも喜ばれるわけです。そこまでが「自利」です。

五念門の「礼拝門・讃嘆門・作願門・観察門」の四つが「自利」です。自分自身の救いです。

そして最後の回向門が「利他」です。ただお浄土に行って、座り込んでよかあんばい言っていることではないのです。

浄土で眠り込んでいないで浄土から娑婆に出てくるのです。利他ですから、人を救いにでてくるのです、それが回向門です。

ですから、娑婆にいて、どこに居っても仏の心を見失わないということです。

何か人を救うということもありますけれども、本当にその人が救われておれば、必ず人が救われていくのです。だからその五念門の因に依って「園林遊戲地門(おんりんゆげじもん)」という果がある。林の園に遊戯する。だからこの世の中を生きることがいろいろあるけれども楽しい、常にご縁を頂いて生きられるということがあるのですね。

「五念門の行」ということについて、このプリントは曽我先生の言葉なのです。

 

◎五念門の行

要するにお念仏を称えることでしょう。お念仏を称えれば、おのずからその人の心も清浄になり、身の立ち居振る舞いものになる。常に仏の前に立っているという安心があるから誰も見ておらなくても、礼拝する。身業の上につつしみの相がある。これが「礼拝門」である。

私たちは、お内仏の前ではお念仏します。真宗の門徒はお念仏しない者はいません。

ところが生活の中で南無阿弥陀仏とお念仏する人が案外少ないです。だから曽我先生は、要するにお念仏することだと言っておられます。南無阿弥陀仏申すという。言葉も尊い言葉を使う。人の悲口をいわず、ほめるようになる。これが「讃嘆門」である。

 

私は人の悪口いうのは好きですもんね。何となく自分が優越感を持つ。あいつは駄目だと言うたら自分は駄目で無いような、………人間はなかなかめんどうですね。それは南南無阿弥陀仏がないからだというわけです。五念門というのは南無阿弥陀仏申すということでしょう。

 

そして常に自分の心に祈りをもつ。祈りとは現世祈祷をすることではない。常にみ仏のおまもりに預かることをお祈りするのである。「三朝浄土の大師等、哀懲摂受したまいて、真実信心すすめしめ、定聚のくらいにいれしめよ。」(正像末和讃)と。これは親鸞聖人のお祈りでしょう。

 

「三朝(さんちょう)浄土の大師等」というのは、インド・中国・日本の七人の高僧ということです。

「哀愍(あいみん)摂受(しょうじゅ)」というのは、私たちがお念仏をいつも忘れて生きている。そして自ら業を造って苦しんでいく。自業自得です。そういう自分を哀れんでくださる。しかしそういう者を捨てられない。「摂受」というのは抱えるということです。決して捨てられない。

そして私に「真実信心」を得ることを勧めてくださる。

「定聚のくらいにいれしめよ」。どうぞ私を正定聚の位に入るようにしてくださいませと。

これは親鸞聖人の祈りだといわれるわけです。現世祈祷でなくて、常に私たちが仏法の教えに基づいて、そういうことを親鸞聖人は祈っておられる。

 

この「作願門」という自分へのおまもりがないと、間違った邪見をおこすのである。だから十方恒沙の諸仏、阿弥陀如来等がおまもり下さるのである。これが「作願門」。

 

「恒沙」というのは「恒」はガンジス川、「沙」というのは砂という意味です。

これは仏教の熟語になっているのです。十方にガンジス川の砂のように居られる諸仏。

「阿弥陀如来がおまもり下さるのである。」これを「作願門」と言われるわけです。

観察門」というのは、ものの道理を正しく見てゆき、自分自身の心の動きを観察していくことである。

 

 私たちは常に危機をもっておる。そのときに私たちが南無阿弥陀仏に基づかしてもらうと、ふっとそういう自分という者に気付かされ、(転)ひるがえされる。だから南無阿弥陀仏があるかないかというのは大きいのです。

私など膝が痛かったりして、あっちこっちどうかあります。季節の変わり目でしょうね。

風邪が治りません。しかしそれは道理なのですね。生老病死は道理なのです。

生あるものは必ず死に帰す、盛んなる者は衰える、生身を抱えておれば病は避けられない。

私などは老と病が一緒です。残って居るのは棺桶だけです。だからそういうことは道理なのです。

仏教は祈ったり拝んだりすればどうかなるという教えではないのです。道理に目覚めよという教えなのですね。人間はすぐに愚痴になるのですが、南無阿弥陀仏が出てくだされば愚痴にならないで愚痴を言っておる自分に気づかされる。

この「道理」は三千年前であろうと後であろうと、インドであろうと日本であろうと関係がない。また、金があろうと物があろうと生老病死は関係ないですからね。だから仏教は道理を教えるわけです。だから道理に基づく人間の生活が始まる、それを常に私たちにご催促下さるのが南無阿弥陀仏だということを仰るわけです。

 

観察門」というのは、ものの道理を正しく見てゆき、自分自身の心の動きを観察していくことである。

「回向門」というのは何時でも人間に同情同感することである。相手の立場に立って行くのが回向ということである。(曽我量深「実語抄」)

 

これは非常に分かり易い表現をしてありますけれども、非常に味わいが深いです。

曽我先生には五念門について書かれたものがいくつかあるのです。しかしこの「曽我先生実語抄」に書かれた言葉が判りやすいと思って引いておきました。

 

要するにお念仏称えるということでしょう

 

と仰っておられることはとても大事です。

私たちは、なかなかお念仏が出ません。俺がはすぐに出ますけども、お念仏はすぐには出ません。そういう自分を照らしてくださる。そして真実の道理に向かわしてくださるはたらきです。

五念門というのは非常に難しいことを言ってあるようですけれども、非常に大切なことを仰っておられるわけです。

今日の話は、これで終わりたいと思います。有難うございました。 合掌

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