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​正信偈に聞く

 44-1 

​平成24年3月25日

みなさん今日は、よく参り頂きました。今日は曇鸞様のところの後半でございます。

後半は曇鸞様の教えについて述べられておるところでごございます。

 

天親菩薩論註解・天親菩薩の「論」、註解して、

【曇鸞大師は、天親菩薩の「浄土論」に対する註解を造って、】

報土因果顕誓願・報土の因果、誓願に顕す。

【往生の原因と結果は、如来の誓願によることを顕かにされた。】

往還回向由他力・往・還の回向は他力に由る。

【相も還相も回向はいずれも阿弥陀如来の本願力である他力による。】

正定之因唯信心・正定の因はただ信心なり。

【往生が確定する因は、ただただ信心である】

感染凡夫信心発・感染の凡夫、信心発すれば、

【煩悩に汚れた凡夫であっても、信心を発すならば、】

証知生死即涅槃・生死即涅槃なりと証知せしむ。

【迷いの状態が、そのまま迷いを離れた状態になることを曇鸞大師ははっきり示された。】

必至無量光明土・必ず無量光明土に至れば、

【凡夫が必ず無量の光明が輝く浄土に至るならば、】

諸有衆生皆普化・諸有の衆生、みなあまねく化すといえり。

【穢土のあらゆる衆生をみな例外なく教化することができると言われた。】

ここに「往相」と「還相」という事があるわけですが、

 

④「往・還の回向」―往相回向と還相回向。

往相回向は念仏の衆生を浄土に往生せしめる本願の働き。

還相回向は浄土に往生した菩薩が、その志願により浄土に止まらず、穢土にもどって他の衆生を導こうとするようになる本願の働き。これを如来の本願力の回向といい、他力という。

 

と書いてあります。

仏教という教えの基本は、仏というのはブッダです、ブッダというインドの言葉を「仏陀」と漢字になおしたのです。この漢字は音を合わせただけですから意味はありません。

意味は「覚者」、目覚めた人。だから「ブッダ」という言葉は目覚めた人という意味です。

じゃあ、何に目覚めたかといったら真理に目覚めた人。真理のことを仏教では「法」といいます。インドの言葉で「ダルマ」。「仏陀」という意味は、法に目覚めた人という意味になります。

我々は法のはたらきの中に居りながら、自分の思いだけで生きていきますから法が見えない。だから法の中に居て法が見えない存在を「凡夫」といいます。

「感染の凡夫」というのは、長い間かかってそういう者になったということです。それに対して目覚めた人が仏陀です。

ですから仏教は「転迷開悟」ということを教えます。つまり「迷いを転じて悟りを開く」悟った人が仏陀です。迷いを迷いと解らんのが迷っているわけですから、その人を「感染の凡夫」と言っておられるのです。

だから仏教という言葉の中には「仏の教え」という意味がある。具体的には釈迦と言う仏陀です。

「目覚めた人の教え」という意味と、「仏になる教え」という意味があるわけです。

この教えによって我々も仏に成れるわけです。仏に成れるということは、凡夫が凡夫と気づくということです。しかし凡夫の力で凡夫と気づけないわけです。目覚めた人の教えに依らなければ気づけないわけです。これが仏教という教えの基本です。

人間がここに居て、向こうに仏とか神を置いて祈る、そうすると「おあてがいがある」とか、「お救いがある」とか、それを感謝するというのは仏教ではありません。

仏陀と言うのは「法に目覚めた人」。法のことを真如とか如来と言ったりします。

「如」というのは一如とかいいますから、法そのものから私どもの所まではたらいて来ておられる仏様を如来様と言います。だからどこまでも「目覚め」と「悟り」ということを教えるのが仏教です。

そういうことを基本に置いて読みませんと、ここに書いてあることがどういうことか判りません。

「彼岸」と言うでしょう。これは向こう岸(彼の岸)という意味ですね。

川を闇において、自分の立っているところが「此岸」です、向こう岸が「彼岸」です。

「パーラミタ」というインドの言葉を漢字に充てて「波羅密多」と書いたのですね。意味は「到彼岸」、つまり「彼の岸に到る」。

彼岸は中国でできた言葉です。インドは「パーラミタ」それを中国では「波羅密多」、と音写して、それが六つあるから六波羅密。

「彼の岸」と言うのは、こちらから向こう岸へということですから、こちらは迷いの世界、あちらは悟りの世界。その悟りの世界に行くための修行が六波羅密です。

「布施ふせ・持戒じかい・忍辱にんにく・精進しょうじん・禅定ぜんじょう・智慧ちえ」といいますけれども、これが菩薩道の基本だということを教えているわけです。「迷い」から「悟り」へということを教えているわけです。

その時に真宗以外の教えでは、此方の岸で仏陀の教えを聞いて菩提心を起こす。

悟りを求める心を菩提心といいます。菩提心は「上求菩提じょうぐぼだい・下化衆生げけしゅじょう」といって、「上は菩提を求め」、つまり自分自身が悟りを聞いていこうとする、自利です。それが菩提心の基本です。そして自分が悟ったら「下化衆生」、衆生を教化する。これが菩提心の中身になるのです。だから「下化衆生」が利他になります。

仏様は必ずそういうことを言うわけです。自分だけが救われるということでなくて、自分が悟りを開いて衆生を教え救う。そこに仏陀という者の意味があるわけです。これも仏伝を読んでみますと、そういうことが書いてあるのですね。

お釈迦様は二十九歳で出家されます。そして三十五歳の十二月八日にお悟りを開かれたと言われております。そして八十歳で亡くなります。だから四十五年間、いろいろな人に教えを説かれました。ところがお釈迦様は悟りを開かれてから、奥さんの所には帰られませんでした。出家のままで暮らされます。だからお釈迦様と同じように皆、出家してお釈迦様の教団に入ったわけです。その伝統が日本にも伝わっておりますから、親鸞聖人も出家されます。これが仏教の伝統になっているわけです。

お釈迦様はお悟りを開かれただけでなく、人を救うという面がなければ仏と言えないわけですから、悟りの世界を多くの人々に教えるということが「下化衆生」ということなるわけですね。だから仏様には「上求菩提・下化衆生」という、自利と利他のはたらきが必ずあるわけです。

お釈迦様が悟りを開かれたときに、「希なるかな、希なるかな」と言ったといわれるわけですから、その世界は、迷いの世界に居たときには想像もつかないような広く明るい世界だったでしょう。だから本当に「希なるかな」と。

そして「自受法楽・じじゅほうらく」というのですが、悟りの世界を楽しんでおられたそうですね。そしてお釈迦様は、こんな広い世界は普通の者には解らない。悟りの世界を皆に話してみたって信ずる者はいないと思われたそうです。だから静かにじっと悟りの世界に恍惚としておられたでしょう。

そのときに仏伝の中に「梵天勧請・ぼんてんかんじょう」というところがあるのですね。「梵天」というのはインドの国の神様の中で最高位の神様、日本でいえば天照皇大神でしょう。インドの世の中を代表する神様が、お釈迦様に仰るわけです。

「どうぞ、悟られた法を人に説いてください。中には解る人がいます。でなければせっかくあなたが広い世界を悟られても、あなたがそのまま死んでしまうならば、多くの人はそれを知らずに終わるわけですから、それではあなた自身が悟った意味も少ない、悟ったという事にならない、だからどうぞ語って下さい」と言って、「梵天」がお釈迦様に「勧請」するわけです。

お釈迦様が最初に法を説かれることを「初転法輪・しょてんぼうりん」と言います。

お釈迦様が始め伝統にもとづいて出家なさったときに、お父様(王様)の命令でお釈迦様と一緒に出家をさせた者も苦行をしているわけですね。ところがお釈様が、肉体を痛めつけるだけでは本当の真理は覚れないとお気づきになって、苦行を止めて、そして思索に入られるわけですね。そうすると、お釈迦様に付いて出家をした人たちは、「やっぱりなんのかんのと言ったって王さんの息子だ、我が儘、気ままに育っていたから苦行に耐えられなくなって苦行を止めたのだ」と思い、シッダルタを相手にするなと言って、放っておいたそうですね。

ところがお釈迦様が悟りを開かれたら、「初転法輪」は、お釈迦様と一緒に出家した五人の比丘のために悟られた法を説かれます。その時、その者たちの側に歩いて行かれたら五人の比丘はシッダルタとお釈迦様の名前を呼んだそうですね。

その時にお釈迦様が、「私を、シッダルタと呼んではならない。私を「仏陀」と呼ぶべきだ」と言われていますね。そして仏陀になった道理を五人の比丘に説かれたら、比丘たちはその道理を聞いて、さすがにそこで一緒に修行をしていた人たちだけに、その法が解ったのですね。「あぁ、この人はプツダになった」と。そして、その人たちが最初の弟子になるわけです。そしてだんだん教えが広がって行くわけです。

だからパアーラミンタ(到彼岸)ということは、仏教を端的に表している言葉なのです。日本には「春分・秋分の日」を中心にして一週間、お彼岸という行事がありますが、インドにも中国にもないそうですね。日本だけだそうです。

これは平安時代に朝廷で始まったそうですね。誰が朝廷に願い出て始めたかそれも判らんそうです。江戸時代に入って一般の人々の暦の中に入って行ったといわれております。とにかく「彼岸」というのは「上求菩提・下化衆生」を現わしているわけです。

天親菩薩の浄土論で言いますと、此方が「穢土」、そして向こうが「浄土」です。そしてそこに「浄土往生」という言葉が使われてくるわけです。浄土往生が成り立つのは如来の本願です。

大無量寿経の教えでは、法蔵菩薩が四十八願を建てられて、すべての人間を救うために浄土を建立なさる。阿弥陀仏はただ、自分自身が悟りを開いた世界を浄土と言っておられるのではないのです。すべてのものを平等に仏にするための世界を浄土と言っておられるのです。この浄土は阿弥陀さんのために造ったものではないのです。すべての人が救われるための浄土であり、それが阿弥陀さんの救いでもある。だから阿弥陀さんは一人でも救われない者がおるならば、阿弥陀さんに成れないわけです。それを本願と言います。

だから普通の人が菩提心を起こして悟りを開く「上求菩提」と言うのは、どこまでも個人です。しかし悟りが開けなかったならば「下化衆生」はできないわけですから、聖道門の人たちは、悟りが開けないために苦労しているわけです。

しかし大無量寿経では、お釈迦様の教えが全く違っているわけです。まず弥陀如来の本願がある。そして私が若い時に人生に苦しみ、とうとうそれがこうじて女房・子供・家族・親まで捨てて、そして山に入って修行したのは、私が私の力で「上求菩提」を求めたのではない。ここまで菩提を求めた根本に阿弥陀如来の不願というものがあった。それの促しによって、私は普握を求めたのだったと気がつかれたのが三十五歳の悟りの中身になっているわけです。そしてそれが大無量寿経におけるお釈迦様の教えになっているのです。

だからすべての人間の上に阿弥陀如来の本願がはたらいている、それに私も触れた。そして南無阿弥陀仏に成ってたすかった。だからお釈迦様によって創られた本願ではないのです。

如来の本願は、すべの人の上に、人間の思いや考えを超えてはたらいている真、そのまことにお釈迦様自身も触れた。そして南無阿弥陀仏申したのが三十五歳の十二月八日の悟りの中身、それが大無量寿経におけるお釈迦さんの説法です。

正信偈に聞く44-2

​正信偈に聞く

 44-2 

​平成24年3月25日

これは他の教えと違うわけです。穢土の凡夫を放っておけないという阿弥陀如来の本願があって、その阿弥陀如来の本願が法蔵菩薩になった。「従果向因・じゅうかこういん」と言うことが説かれます。修行をして悟りを開くということは、因より果へ向かうということが普通のものの考え方です。みな原因があって結果になるでしょう。だから因から果へ向かう「従因向果・じゅういんこうか」と言います。

ところが法蔵菩薩の仏様は違う。阿弥陀仏の本願から法蔵菩薩は出て来られた。ですから果から因に向かったわけです。だから法蔵菩薩は単なる人ではなかった。阿弥陀如来(果)が法蔵菩薩(因)となった「従果向因」の菩薩ということになるのです。

その阿弥陀如来が法蔵菩薩になって、つまり人間のものの考え方の世界に降りてくるということです。そこで人間に合わせて人間の救われるべき浄土をつくるために願を建て、しかし願いだけでは、事は始まらないでしょう。

例えば、お医者さんになりたいという願いを持っていても、医大に入学して医者の資格を修得せねば駄目でしょう。そのためには行がいるわけです。だから、願行具足して阿弥陀仏が浄土を建立なさった。そしてこの浄土に生まれれば仏です。だから浄土に往って修行するのではない、浄土に生れれば仏です。そういう世界がつくられているのです。法蔵菩薩が願行具足してつくられたわけです。

浄土に穢土の凡夫を生まれさせたい。その時に難しい修行を要求すれば往生できる人もいるし、往生できない人もいる。それでは聖道門と同じになります。それで、すべての人が平等に浄土に生れれば仏になれる。浄土建立して一切衆生を生まれさせるための浄土、そこに南無阿弥陀仏を成就した。それが「五劫思惟之摂受」です。

何のために五劫の間修行したか、どうして救うか、浄土に生まれさせるか。それは法然上人の「選択集」を見ますと、そこに書いておられます。

例えば、六波羅蜜には「布施・ふせ」というのがあるでしょう。布施をして来いというたら布施のできる人は往けるけど、できない人は往けません。「持戒・じかい」を守って来いと言うたら戒律を守れる人と守れない人がいますよ。「忍辱・にんにく」というのは耐え忍ぶということですから、できる人はいいですけど、できない人はできない。だから、誰でも等しく生まれて仏になる道を考えた。それが南無阿弥陀仏を成就したという意味です。だから「称えやすく」と言ってあります。これは歎異抄の中の言葉です。「たもちやすく」と歎異抄の中に唯円はいっておられますね。

 

誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、…

(歎異抄 第十一章 七七二頁)

 

「たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、」という言い方をしておられます。だから「となえやすき名号」です。

南無阿弥陀仏というのは誰でも言えるでしょう。

「たもちやすく」ということは、道を歩いていようと、風呂に入っていようと、夜の寝覚めでも言えるでしょう。だから「たもちやすい」と言っておられるのです。

「名号を案じいだしたまいて」、そういう名号を考え出されて南無阿弥陀仏という易行(いぎょう)を与えて、称える者を浄土に生まれさせようという、それが穢土を厭(いと)うて浄土を願う。その時に穢土から浄土に向かっていくことを「往相・おうそう」といい、浄土から穢土へ帰るのを「還相・げんそう」というのです。

それに対して、人間の回向でなくて如来の他力回向と、「往還回向由他力」と、こういうように親鸞聖人は曇鸞様の教えを頂かれたわけです。

 

④「往・還の回向」―往相回向と還相回向。往相回向は念仏の衆生を浄土に往生せしめる本願の働き、還相回向は浄土に往生した菩薩が、

 

つまり普通の凡夫が浄土に生れれば菩薩です。普藤というのは、仏自体というよりも仏様の教化の手伝いをする人の位を菩薩と言っておるわけです。

 

「その志願により浄土にとどまらず、穢土にもどって他の衆生を導こうとするようになる本願の働き。」

 

つまり、せっかく浄土に生まれたわけですから、法を楽しめばいいわけでしょう。「自受法楽」ですね、そういう人もいるでしょう。

ところがそうでなくて、菩薩が菩薩である意味は、やっぱり衆生を放っておけない。その如来のこころをわが心として、そして如来のはたらきをこの世に弘め、顕らかにする、そういうことをせねばならんことを考える、それは「志願・しがん」です。だから「志願」により浄土に止まらず、穢土にもどって他の衆生を導こうとするようになる本願の働き、それを還相回向(げんそうえこう)というのです。それで回向ということについて、

 

(参考)回向一回転趣向の義で、此方のものを、彼方へふり向けること。これに自力回向と、他力回向とがある。自力回向は自分の修めた善根を、ふり向けて、仏になる因とすることで、他力の回向とは、仏の方にて成就されてある功能を、衆生の方へふり向けてくださることである。又回向を回思向道の義とし、他に向いていた心を、浄土の一道へ向けかえるという意にもとり、これをも他力の回向とする。曇鸞さまのいわれる他力回向は、法蔵菩薩の自利利他の五念門行の成就による往相(自利)還相(利他)の二回向である。

和讃に「弥陀の回向成就して、往相還相二つなり、これらの回向によりてこそ、心行ともにえしむれ」とある。

 

こう言ってあります。

つまり、私たちは何もしないわけですが、往相も如来の力、還相も如来の力として、南無阿弥陀仏の中にすべてが込められておる。それを私たちが頂く。それが仏道だということをここで言っておられるわけです。

だから「上求菩提・下化衆生」と、自分が悟って、そして今度は他を救うというようなことではないということです。そのことを考えていくときに、宮沢賢治の「雨ニモ七マケズ」の資料を見てください。

 

「雨ニモマケズ」

  雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ、夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモ、シヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミ、キキシ、ワカリ ソシテ ワスレズ

「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ、

西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクワヤ、ソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハ、ナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ

サウイフモノニ ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩

南無上行菩薩

南無多宝如来

南無妙法蓮華経

南無釈迦牟尼仏

南無浄行菩薩

南無安立行菩薩

 

 

これは御存じと思いますが、宮沢賢治の手帳の中に書いてあったものが、宮沢貴治が亡くなった後に見つかったものです。だからこれは宮沢賢治が生きている時には発表されなかったものです。

宮沢賢治は岩手県の花巻の人で、盛岡の高等農林を優等な成績で出たそうですね。今で言うたら岩手大学農学部です。研究科まで行っています。

今は童話作家とか詩人で有名ですけれども、農民民運動をした人です。病気で早く亡くなります。

この人は日蓮教徒です。この人の作品は日蓮宗の思想から出ているのです。この人のお父様は有名な念仏者でした。本によって違うのですが、質屋さんだったとか、古着屋さんだったとか書いてありますが、宮沢賢治は、家の家業に非常に矛盾を感じていたといわれます。

東本願寺の宗務総長までした人に暁鳥敏という人がおられましたが、この人を家に呼んで法座を開いて、多くの人々に念仏を勧めた人がお父さんです。それに宮沢賢治は批判をするわけです。

一つは「利他」という問題です。南無阿弥陀仏と言って、死んで極楽に往くということは、何か生活そのものの中で個人的な安心はあるかも知れないけど、もつと社会に積極的に係わっていく「利他」の問題が真宗の教えには明確ではないのではないか、積極的ではないのではないかという批判をいつも宮沢賢治は持っていて、お父さんに背くわけです。改宗をせまったと言っていますからね。

この人は大学を出て、しばらくして東京に出ます。そして田中智学という人に遇います。

「国社会」という在家仏教運動に参加します。これは日蓮宗の教えから来ているのですが、国の柱、日蓮上人の教えが基本です。

田中智学と言う人は、子供の時に日運宗の僧侶になっています。しかし自ら還俗して、日蓮上人の教えを基にした在家仏教運動を起こします。それが「国社会」です。だから書物を書いたり講演をしたりするのが中心になるわけです。

日蓮上人は、浄土往生というのは他界往生だと、これは仏教ではないというのが日蓮上人の基本的な考えでした。だから日蓮上人は、この世を浄土にせねばならんわけです。

そのために身を投げて、そして世の中のために尽くすということが、日蓮宗の基本です。だから浄土宗は南無阿弥陀仏と言って、死んで極楽に往くというけれども、仏教というのはそういう教えではない。この世で悟り、ただ悟るだけでなくて、多くの人々を救って行かねばならない。そしてこの世を浄土にしていくのが日蓮上人のものの考え方です。

田中智学の「国柱会」は、やがて右翼の運動と繋がっていくわけですが、宮沢賢治は、その頃は居ませんけれども、田中智学さんが純粋に在家仏教運動をしておられた頃の信者です。ですから宮沢賢治の中にそういう考え方が基本にあるのです。

この世の中に一人でも不幸な人が居るならば、私たちの本当の安心はないという考え方です。宮沢賢治の考え方に、私たちも共感しますよ。自分さえよければいいと言うようなことは、いいはずないですよ。

しかし教えを依りどころにして、人間の努力でこの世の中が浄土になるのかということに本当に断念した人が法然上人や親鸞聖人でしょう。だからこの世を磯土と、そして、人間が人間を救うということは絶対に不可能だと断念し、人間の努力や考えでなくて、人間に常にはたらく弥陀の本願を仰いでいかれたわけです。

他力回向の基本は、私が本当に救われていくことが、やがてみんなも救われてくださる道だと金子大栄と言う人は言っておられます。

 

すべての人の救われる道において私も救われていく。

 

私が助かって人を救うていくのではなくて、すべての人の救われていく道が念仏の教えです。

「金子は念仏者の手本だと、私等も金子のようになりなさいということにはならない。」

「私は手本にはなれません、しかし見本にはなれます。そしてそれは、すべての人の救われていく道において、私も救われていきます。」と。

 

宮沢賢治の場合は、先ず自分が救われて人を救うて行くという道ですから、やっぱり自力聖道門です。しかし宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という文章はいいですね。「そういうものに私はなりたい」と最後は言っていますね。こういうところに菩薩精神というものがあるのです。だからこそ、非常に純粋ですね。

しかし人間の上に純粋を認めないのが親鸞聖人です。人間に純粋性なんてありえない、凡夫を一歩も出れない、だからこそ他力に依ると言われるのが親鸞聖人の在り方です。

どちらを選ぶかという事は、みなさんお一人お一人なんです。理想主義で行くのか、親鸞聖人の教えのように本当の現実主義でいくのか、…「自己を見よ」と… だから、これは宮沢賢治の夢なんです。そういうところに仏道を現わしていこうとするわけです。  

「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べあらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きし、わかり、そして忘れず」言い方も丁寧ですね。「野原の松原の林の蔭の小さな萱ぶきの小屋に居て、東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい、日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、皆に木偶の棒と呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい」これがずっと宮沢賢治の願いだったわけでしょう。

それは仏の願いを宮沢賢治は自分のものにしたいわけですね。しかし私たちは、それに背く形でしか生きていないと言う深い悲しみが、むしろ如来の本願を頂くというかたちで、私たちに教えはたらいてくるわけです。

しかし宮沢賢治は、仏の願いを自分の願いとして働いていくことに喜びというか教えに遇うた意味を感じておられたのでしょうね。だから最後に、法華経に出てくる仏様の名前がみな書いてあるわけです。

南無無辺行菩薩・南無上行菩薩・南無多宝如来・南無妙法蓮華経・南無釈迦牟尼仏。南無浄行菩薩・南無安立行菩薩。

つまり南無していますから、この人の南無阿弥陀仏ということなんですね。だから、これが自力聖道門の彼岸を求める菩薩道なのです。それに対して「他力」ということを曇鸞様が言うてくださった。そのことを親鸞聖人が喜んでおられるということを、私たちは頂かなければいかんわけです。

正信偈に聞く 44-3

​正信偈に聞く

 44ー3 

​平成24年3月25日

お手元にある資料は、大石先生の書かれたものです。毎月村上さんご夫妻の家で大石先生の「直筆書信集」というのを順番に読んでは、みんなで味わいを語りあうような会を毎月持っているのです。そこで読んでいるものの部分なんですけれども、

 

正信偈資料(曇鸞―往還回向由他力)

曇鸞さまは「自利成就せれば、利他は出来ない。利他の活動をしなければ、自利も成就しない」と言われている。その自利利他できる菩薩の心は、どういう智慧なのか。私達は人の利益どころか、自分の安楽に執われ、自分に値打ちをつけ、人を安んじてゆこうなど、少しも思うものではありません。だから浄土を観察するどころか、自分にとって都合の悪い、悪人ばかりがいる迷界に住んでおります。ところが浄土に生まれると二十九種の功徳で荘厳されている。そこに人間が生まれて、浄土を見るということではありません。浄土の往生した

菩薩の心の風光であって、生まれた国土と、それを観ずる菩薩の心とは一つだと申されるのです。ここから、相対の世界、我多彼此の対立でしか見えなかった、考えられなかった人間のちえが消えて、「諸仏・菩薩に二種の法身まします」という世界が開けてくるのです。

浄土は私の外に、又死後どこかに存在するものではない。主観の底の下、自分の心の奥から展開される、主客合一、(「主」は自己「客」は環境)天地の外に自己は無い。自己の外の天地は無い。私達が一番心に満足を感ずるのは、小我が消えて、無限絶対者と一つに溶け合っているときです。聖道門もそれを説いておられるのです。聖人様は、浄土論を頂かれて、仏様の本願に帰命させていただいたら、仏様のほうが、ご自身の「一心」の中から、浄土の二十九種の功徳を展開してくださる。それをご回向として押し頂いておられるのです。

私も対立の世界で、普悪・差別の妄見で迷わされます。然し、どこまで落ちていっても、仏様は捨て給わず、私を常に見守っていてくださいます。

自分が、自分という肉体をもった形でありながら、自分たらしめている天地の本体たる一大不可思議なるみ力、生命の顕現なのだ。その生命は、天地の形あるすべての現象として現れている。我もそうである。全ての人、みなそうでない人は一人もいない。

「無量の功徳、一念の信に具す」ここから先はとめどがありません。

この「広略相入」という智慧は、開けば無限の世界となり、納めれば自他が消えて、絶対界に帰る。

私が、私にとって都合の悪い人を、悪人と見るのは、相手の人が、私のそういう妄見に

落ちて苦しんでいるのを教えて、その私を救うて下さろうとした仏様だったのです。そこに帰らされた時、私には悪人がなくなって、すべてが尊い存在に見えるのです。母いという言葉は要りません。「そのまま」なのです。

これを離れたら、私は生きてゆけません。お念仏の中では、私は何ものも支えにせず、敵もなく、味方もなく、すべてのご恩の中で、感謝して生きてゆけるのです。

(大石法夫著「同行様たちへの直筆書信集」下巻)

 

藤解先生は、刑務所を出た人で、どこへ行く当てもない人を身元引受人になって「六光学苑」に迎え入れておられた方で、藤解先生が亡くなられてからも、今も「六光学苑」の苑長をその息子さんがしておられますが、そこで大石先生も一緒に藤解先生が亡くなられた後も、その伝統を守っておられました。

大石先生は刑務所から出たKさんという人を預かつておられました。その人は、戦時中予科練に行ったりしておられて、戦後どう道を間違ったか、窃盗などいろいろ犯罪を犯して刑務所を出たり入ったりしていた人のようです。

大石先生は、その人を大事にして、誠心誠意その人の世話をしておられたようです。ところがいつも大石先生の行為を踏みにじるようにして、学苑を出て酒を飲んで酔っ払ったり窃盗したり、そしてまた刑務所に入ったり、そういうことを繰り返していく中で、大石先生はいつか解ってもらえると思っておられたようです。宮沢賢治の世界ですよ。

何時か解ってもらえると思って、ずっと辛抱して、この人を仏様として頂いておられたのですけれども、とうとう我慢が出来なくなって、ある時、その人を殴られたそうです。それで自分自身の善行が完全に音を立てて崩れて、それが大石先生の回心のきっかけになるのですね。

本当の善行がない「煩悩具足の凡夫」と、………この人は、京都帝大の学生の時に学徒動員で軍隊に入隊して、海軍の山口県光市で人間魚雷の搭乗員の訓練を受けていた人です。

人間魚雷と言うのは、魚雷に人間を乗せるのですから、前の三分の二が爆薬だそうですね。後の三分の一に空間をつくって、そこに人間を乗せて、足を延ばしてちょうどの広さだと言われましたね。それを潜水艦が敵の軍艦の側まで連れて行って放すのですね。後は、自分で潜望鏡で見ながら運転して、そして敵艦に突っ込むわけですね。だから飛行機で突っ込む特攻隊と同じことを魚雷でやっているわ

日本は戦争に負けるまで、レーダーがなくて、原理は判っていたようですが完成していないのですね。ところが、敵はレーダーを持っていますから、B29が東京に出て来て雲がかかっていても正確に爆弾を落とします。敵艦めがけて日本の潜水艦が近づいて行くと魚雷の射程距離に入らんうちから捕まるわけです。そして機雷を落とされて潜水艦が側に寄れないのですね。

だから制空権も制海権も日本は無くなっているのですね。しょうがないから苦肉の策として魚雷に人間を乗せてレーダーの届かない所で放して、その人間に運転させて突っ込ませる。大石先生は、そういう人間魚雷の練習生になっておられたのです。二十四歳だったそうですね。

私が藤解先生の所に入りました時に大石先生は「六光学苑」の主事のようなことをしておられました。藤解先生がお説教の中でよく大石先生のお話をされるものですから、それで大石先生の事を知ったのですが、大石先生に、戦争に負けたときのことを聞きましてね、

「あぁ、これで命が助かったと思いましたか」と聞きましたら、「何を言いますか」と言って怒られましたね。「戦争は今からだと思ったと。」「魚雷で死ぬのは怖くなかった、国のため家族のために死ぬれば靖国神社に行くと思っていた」と言われましたね。

ただ、私の一生(二十四年間)はなんだったかということをふっと思ったと。つまり死が生を問うのですね。

大石先生は小学校から高等学校まで二番になったことがない人だったと、お母さんが言われました、優等生だったそうです。そして京都帝大に入っておられるわけでしょう。そういう人でしたけれども、私の一生は本当に心休まる暇はなかった、競争から競争だったと言われましたね。

軍隊でも「誰と誰はどういう任務に付け」とは上官は絶対言わなかったそうです。「こういう役目があるがはおらんか」と言うそうです。そしたら、みんながはいはいと言って、手を上げるそうです。だから、はいはいと先に手を上げた者が早く死んで行ったと先生は言われましたね。つまり競争意識を駆り立てるわけです。命がけですから、上官は責任を持てないわけです。そういうことを思った時に、本当に心休まることはなかったそうです。

その時に、大石先生は幼稚園の時に、寺の日曜学校に行っていたそうですね。そこで坊守さんがオルガンを弾いて仏様の歌を教えておられたそうですね。山口県光の海岸に休みの時は、行ってじっと座っていたらその時歌っていた仏様の歌がふと出て来たと言われましたね。

ここに、本当に人間の安らぐ世界があるのでないか。命ある間にこのことをはっきりさせたいと思うようになったと言われましたね。禅宗の寺が光にあるそうですね。時間があればそのお寺に行って禅を組んだりしておられたそうです。そしたら戦争に負けた。

日本は戦争に負けたと聞いた時、「何を馬鹿なことを言っておるのか。戦争は今からだと思った」と言われましたが、上官から、「荷物をまとめて帰れ」と言われて、この方は大竹の人ですが、大竹に帰られて、大学は一年残っていたそうですね。だから一年大学に行ったそうです。授業はほとんど受けなかったと言われましたね。

哲学の先生やら禅宗のお寺にずっと尋ね歩いて、自分の問題を投げかけたそうです。その時に哲学の先生が一番駄目だったと言われましたね。哲学の先生は自分自身の具体的な問題を持ちかけたら解らんと言われたそうです。頭では判っているのだけれども、こうしなさいとか、こう頂きなさいということはなかったそうですね。

そして哲学の先生に「戦争は負けましたけれども、先生に苦しみや悩みはありませんか」と言うたら、「君は何を言うかね、これから先、日本はどう生きていけばいいのか、私の学問を日本の学界にどう生かしていけばいいのかというふうに考えた時に、私は悩んでばかりおる」という先生がおられたそうですよ。

その時に、ああ、この人の教えを聞いたって駄目だと思ったと。どういう世の中になったって動かない真というものを、この人も持たないのだと思ったと。禅宗の寺で妙心寺という寺が京都に在ります、そこに行って話したら、老師が喜んで、一部屋を空けてくれたそうですよ。「あなたがいつでも来て座れるように開けておきます」と言うて、それでも解らなかったといわれましたね。

そして卒業して、結婚も就職も決まっていた、その時に、たまたま藤解先生に遇われたのですね。そこで大石先生は何もかも放り出して藤解先生の弟子になっておられるのです。

そういう人に私は遇うたわけですよ。世の中にこんな人がおるのかと思いましたね。恐ろしかったけど優しい人でした。この方から仏教の基本を得るということはどういう事かということを学びましたね。

しかしこの人も藤解先生が生きておられる間は、信心はもらえなかったといいますね。Kさんを殴ったということがあって、大石先生が今まで作り上げたものが全部壊れた。いわゆる自力ですね、俺がというもので立っている世界に救いはないということが、回心だったのですね。

親鸞聖人で言えば「いずれの行もおよび難き身」という事が、そこではっきりして、そしてこの方は、広い世界に出たといわれますね。やはりこの方の話は全然違いましたね。癌で亡くなりましたけれども、光善寺にも二・三度お出で頂いたことがありました。

たとえ私はどういう者であろうと、如来様はお捨てにならないわけです。そして私を常に呼んでおられるわけです。そういう世界が他力回向と言われている世界なのですね。そこに浄土があるわけです。そして南無阿弥陀仏の世界は、心の深いところの世界を話しておるわけですと藤代先生は仰っておられました。

だからこれを平面的に見れば、穢土は私が生きているときで、浄土が死後と考えるのは常識です、しかし、それは化土です。観念の世界です。だから真実報土ではないという話を前回しました。

真実の報土というのは、阿弥陀仏に依って成就された、南無阿弥陀仏という真が、私のところまではたらいている、それは、わが身をたのむ心が間に合わんということを知らせる形で働いているわけです。「自力のこころをふりすてて、一心一向に弥陀をたのめ」というのが蓮如上人の言い方ですね。その自力が間に合わんということを私の生活が知らせるわけです。

宮沢賢治が「怒らず」と言ったって、そういうわけにはいかんわけです。「そういうものになりたい」ということは分かります。しかしそこに理想があるわけです。そういうところにお父さんと快を分けた宮沢賢治の理想主義があるわけです。その理想主義が日蓮上人の教えと一緒になっているわけです。「自分を勘定にいれず、欲は無く、決して怒らず、いつも静かに笑っている。

そして今度は具体的に人々のためにやっていくのに「病気の子供があれば行って看病してやり」「疲れた母あれば、稲の東を負うてやり、「死にそうな人があれば行って怖がらなくていい」と。「怖がらなくていい」と言うて間に合うのかという、これは大問題ですよ。

なぜかといったら、死んでいこうとする人の前で、自分は生きているわけです。それに「怖がらなくていいという」と、そういう言葉が間に合うのかどうか、「喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い」これも簡単じゃないですよ。「日照りのときには涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに木偶の棒と呼ばれ、褒められもせず苦にもされず」ここがまた難しいですね。

やっぱり認めて欲しいわけだし、お前馬鹿かと言われたら、お前がおれの気持ちが判るかと言いたいし、人間と言うのは困ったものです。「自力の心をふり捨てて」というのは、自力でそういうことに間に合う人間になれるのかということが問われるわけです。そして、所詮「いずれの行もおよびがたき身」を知らされ、一心一向に如来をたのむ、そこに私が他人を背負えない、すべてを救わずばおかぬという如来の本願に凡夫の一人として、すべての人の救われる道に自ら依っていく、そういうことでしょう。

「俺が」という心がある間は、人間を救えないということを大石先生はここで言っておられるわけです。これは自分自身のことを抑えて仰っておられるのです。俺がというものがある間は、浄土は開けないというのですね。心の深いところの問題だと言ってあるのが大事だと思って、これを皆さんにお配りしたわけです。

お帰り下さって、何度も読んでみてください。そういう形で曇鸞様の教えをどこで受け取っていけばいいかということで、こういう形でお話をしてみました。

時間がずいぶん過ぎてしまいました。今日はこれで終わりたいと思います。

有り難うございました。

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